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ふれあい1月号(2017年)巻頭言 [巻頭言:Message]

   日々の小さな冒険(アドベント)を生きる 

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 アドベント(待降節)の季節が過ぎてクリスマスがやって来ました。神の子イエス・キリストが誕生してから今年は2016回目のクリスマスです。お御堂にはイエスが誕生した馬小屋がどこの教会にも置かれていることでしょう。それは一番初めのクリスマスを思い出すためです。

 『世界ではじめのクリスマス』という歌では次のように語られています。



 世界ではじめのクリスマスは ユダヤのいなかのベツレヘム

 宿にも泊まれず家畜ごやで  マリヤとヨセフの二人だけ

 赤子のイエスさま草の産着 ゆりかごがわりのかいばおけ

 やさしい笑顔にみまもられて めぐみのひかりが照らすだけ

 

 世界ではじめのクリスマスは  小さな小さなクリスマス


 けれどもよろこび満ちあふれた 気高いまことのクリスマス

 

 クリスマスが終わるごとに私たちは次のクリスマスを心待ちにします。でも、一番初めのクリスマスこそが毎年クリスマスが私たちに訪れることを確かなものにしているということを思い起こすことがとても大切です。

 2016年前にキリストがこの世に誕生するまで、人類はずっとこのクリスマスを待ち続け、待ち焦がれてきました。長い人類の歴史を考えると、キリストの誕生までの気の遠くなるような年月そのものがアドベントの時間だったと言えるのではないでしょうか。

  *      *      *

 アドベントはラテン語のAdventus(アドベントゥス)、すなわち接頭語ad(〜の方へ)と動詞venire(来る)と過去分詞語尾tusから成る言葉で、待ちに待った出来事がまさにここに到来するという意味であることから、救い主である神の子キリストの誕生を待ち望むことを固有の意味で指すようになりました。

 しかし、イスラエルの歴史を振り返ってみると、彼らはその決定的な出来事をただじっと待っていたわけではないことがわかります。その出来事を受け入れることができるための心の準備や精神を成熟させるために、さまざまな試練を経験し、さまざまな苦しみや重大な事態を乗り越えなければなりませんでした。そのような想定外の事態に臨んでいくことを本来アドベンチャーと言います。様々な危険を冒して思い切って立ち向かうことができるのは、それを乗り切った後に開かれる新しい世界、そしてかつて見ることも知ることもできなかった出来事が待っているからです。

 アドベンチャー(Adventure)という言葉には「到来」を意味するアドベント(Advent)という言葉が刻印されていて、それが冒険の真の目的であることがはっきりと示されています。冒険の後に到来するもの、それを求めていつの時代も人は冒険をするのではないでしょうか。しかし、何が到来するのかは冒険を実際にしなければ誰にもわからないのです。

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 先日、あるアウトドア関連の会社が主催する冒険塾に参加してきました。人はなぜ冒険をするのでしょうか?
 この講座の冒頭で冒険について次のような話がされました。冒険とはリスクを覚悟して誰もやらない事をやる行為である。それは人間だけの特性であるが、その中でも0.3パーセントの人だけしか挑戦しない。今までの人類の歴史において冒険はあらゆる分野で実践されてきた、と。

 空を飛ぶという冒険、病気を治す治療法を見つけるという冒険。冒険というのは何も前人未踏の秘境の地を探検することや未踏峰の山を征服するだけではありません。自分の命を賭けて臨んだ数え切れないほど沢山の人の挑戦や犠牲、そしてときには死によって、今私たちは安全で快適な生活を送ることができるという当たり前の事実にあらためて気づかされました。人間の文化や文明は、自らの好奇心に忠実に生きた人たちの数知れない冒険なくして語ることはできません。

   *      *      *

 聖書には世界で初めて冒険をしたアブラハムの話が語られています。アブラハムは今で言うならイラクの南部、メソポタミア文明が栄えたチグリス・ユーフラテス川が流れる肥沃な土地にあった古代都市ウルに生まれました。彼の家は裕福だったといいます。ところがある日、神の言葉が彼に下ります。

 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。・・・・・
地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記1213)。

 アブラハムは豊かな生活が保障されている都市での生活を捨て、神の言葉に従って旅立ちました。彼は快適でも安全でもない道を選択しました。冒険とはリスクを覚悟して誰もやらない事をやる行為であるとすると、アブラハムの選択は冒険以外の何ものでもありません。彼の冒険はどこに向かっているのでしょうか。

 定住することに必ず伴う一つの価値観というものがあります。それはどれだけ多くの土地、財産、権力を所有するのかということです。それがあれば生活はより快適で安全になります。しかし、アブラハムはそれとは別の生き方を選びました。しかし、それが何をもたらすのか、そこに何が到来するのかはまったくわかりませんでした。彼が信じたことはただ一つ、神の言葉、神の約束、すなわち、そこに必ず何かが到来するという希望だけでした。しかし、その言葉や約束さえも真実であるかどうかは冒険してみなければ決してわからなかったことなのです。そこに彼が世界で初めての冒険者であると断言できる理由があります。

 冒険は人間だけの特性です。動物は、たとえ、人間に一番近いチンパンジーであっても冒険はしません。動物の本能はリスクを回避し、安全で快適に過ごすようにプログラムされているからです。とすると、冒険を選んだアブラハムによって人間は初めて動物的本能と区別されるまさに人間としての特性を持ったといってもいいではないでしょうか。

 旧約聖書に出てくる神の計画を担う人物はアブラハムのように「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」(ロマ418)、その信念に従って行動した冒険者たちです。兄弟たちから悪をこうむりながらも夢を解く力によって家族と人々を救ったヤコブの十一番目の息子ヨセフ、奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから解放させたモーセ、捕囚の苦しみの中で神への回心を説いた預言者たち。彼らの冒険を通じて発せられたメッセージは、突き詰めて言えば、「神はいつも私たちと共にいて、いかなる困難なときにも必ず助けてくれる」ということ、「私たちは自分が犯した罪ゆえにどんなに神から見放されたと思うときでも、そのような私でさえも神は心から愛してくれている」ということに尽きます。彼らにとってその答えは一つの悟りのようなものであり、冒険というリスクを冒したからこそたどり着いた確実で撤回されない神からの答えだったのです。

  *      *      *

 クリスマスはたしかに2016年前に神の子イエス・キリストの誕生によって神と人が一つになったこの上なく喜ばしい出来事です。それは言うなれば神と人の間で「相思相愛」「以心伝心」が成立した出来事であり、神が人間にご自分の愛と心を与えることは神にとっても最大の冒険(アドベンチャー)だったに違いありません。しかし果たしてそれは手放しで喜べる出来事なのでしょうか。イスラエルの民が世界ではじめのクリスマスを迎えるために長い歴史のアドベントを過ごし、そこでアドベンチャー(冒険)を生きたように、クリスマスは私たち一人ひとりに、一人ひとりのアドベンチャーを生きなさいという招きのように思えてなりません。

 冒険というのは何も前人未踏の秘境の地を探検することや未踏峰の山を征服するだけではありません。私たちが招かれているのは日常の小さな冒険です。たとえば、たとえ自分が疲れていても相手に優しい言葉をかけるとか、急いでいても忍耐をもって少し待ってあげるとか、相手のためにちょっと自分を犠牲にするとか、身近な人に対してできる少しの愛と思いやりという冒険のことです。

 先にも言ったように、今の私たちの快適で安全な生活は、私たちに先立つたくさんの冒険者のおかげです。そして、私たち一人ひとりの日常の小さな冒険がこの世界をより生きやすい現実に変え、社会の中に希望が灯ることによって、新たな冒険者の小さな希望の種が大きな冒険へと育っていく基盤を作ることになっていきます。

 その冒険は一番小さなところから、家族の中、友人との仲から始めて少しずつ広げていけばいいのです。それはマリアとヨセフの小さな家族の冒険のように必ず豊かな実りをもたらします。なぜなら、その冒険は自分ひとりの冒険ではなく、神ご自身が私たちに賭ける冒険でもあるからです。

 

 キリストの降誕.jpg

【ジャン=バティスト=マリー・ピエール:キリストの降誕】



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ふれあい12月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

   「わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43章1節) 

                 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 先日新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』を見てきました。この映画は公開直後から評判が高かったのですが、高校生男女の身体が互いに入れ替わるというありがちなストーリーに加え、昭和期にラジオドラマとして放送され、その後映画やドラマにもなり多大な人気を博した同名の『君の名は』を彷彿(ほうふつ)させるレトロな命名ということもあって、最初見るのを躊躇(ちゅうちょ)していました。しかし、公開12週目でも人気が衰えず、あらゆる世代に共感を呼んでいる理由を確かめたくて映画館に足を運びました。

  *      *      *

 山深い田舎町に住む宮水三葉(みつは)という少女は、ある日自分が都会に暮らしている少年になった夢を見ます。一方、東京都心に暮らす立花瀧(たき)という少年も、自分が山々に囲まれた田舎町で生活する少女になった夢を見るようになります。お互い奇妙な夢を見たと思いつつ、夢から覚めてみると入れ替わったことを忘れているので、何もなかったかのように生活を続けていました。しかし、周囲の反応が変であり、その後もたびたび「入れ替わり」が起きたことで、次第に実在の誰かと入れ替わっていたことに気付いていきます。

 二人はやがてスマートフォンに残したメモを通してやり取りし、入れ替わったときのルールを取り決め、入れ替わった後の生活に困らないようにその日の日記をお互いのスマートフォンに残すという約束をします。

 性別も育ってきた環境も全く違う二人ですが、もとの自分とは全く違う自分を演じることでそれぞれの運命が少しずつ開けてくることに互いに喜びを見いだしていました。そんな矢先、突如として二人の入れ替わりは中断してしまいます。

 瀧は自分の記憶と風景のスケッチだけを頼りに、三葉の住む山奥の町に向かいます。しかし、たどり着いた町は三年前に流星群をもたらした彗星の破片が衝突し、死者500人以上をもたらした大事故があった今はなき陥没した町であり、そのとき三葉もまたその犠牲者としてすでに亡くなっていたのです。

  *      *      *

 映画の中に描かれている田舎の風景も都会の風景も細部が大切に描写されていて、単なるリアリズムを超えた魅力ある映像美にまず圧倒されます。そして、物語の進行と同時に流れる音楽と歌詞が物語を牽引(けんいん)していると思われるほどスピード感に溢れていて、次に何が起こるのだろうという期待が高まっていくのを感じました。さらに、物語の構成が、普段私たちが現実だと思っている日常の深層に迫っているという意味では、私たちの心の中にある真実なもの(リアル)を覚醒(かくせい)させる映画でした。

  *      *      *

 それは二つのことに要約されます。

 一つは「私」ということについて。「私」という存在は、他者からの呼びかけ、すなわち、「君は誰?」「あなたは誰?」という問いかけに答えようとすることによって、私らしい「私」になるということ。この映画が試みていることは、まず、他者の呼びかけによる、「私」の「自分自身」への覚醒です。

 二つ目は、私に呼びかける他者の声の必然性の問題。様々な出会いがある中で、この出会いは自分の人生の中でなくてはならない出会いであると確信させるものは何なのでしょうか? それはそのような出会いを生む一つの「出来事」です。そして、この出来事は運命的なものとして自分たちの人生や考えの枠組みの外からやって来るのです。

 「呼びかけに答える私」と出会いの必然性を生む「出来事」がこの映画における大切なポイントだと思います。しかし、この二つのポイントは非常に本質的、かつ根源的なテーマを孕(はら)んでいます。

  *      *      *

 Vocationボケーションという英語の言葉があります。これは「天職」すなわち、自分の気質、能力にふさわしいものとして、その人が生きがいとしている職業のことですが、Vocationの語源をたどると、ラテン語の動詞Vocareヴォカーレ(呼ぶ)、あるいは名詞Voxボックス(声)から来ていて、「神の呼びかけ」に対して答えること、すなわち、神が人にぜひともしてもらいたいことがあって、じきじきにその人を選んで「お願いです。どうかしてくれませんか」と呼びかけ、その神の呼びかけを真摯に受け止めて万難を排して答えようとすることが本来の意味でした。

 現代の社会の中で働いている多くの人にとって仕事というものは生業(なりわい)、すなわち生活の糧(かて)を得るための職業となっていて、仕事と生きがいはかならずしも一致しているわけではありません。

 しかし、どのような人であっても人生の中で「君でなければダメだ」というこの一言を、仕事においても人間関係においても、もちろん恋愛においても待っているのではないでしょうか。そして、その一言がその人の中で本当のやる気と本気を引き出すのではないでしょうか。

 逆に、「君でなくても、君に代わる人間は沢山いる」という言葉は非常に酷(こく)言葉ですが、今この日本の社会には多くのブラック企業のような現実が蔓延(まんえん)していて、これらの社会、会社、職場が発しているメッセージはまさにこの言葉です。そのような酷なメッセージが今若い人たちを含めたすべての年代の人たちにとって生きがたい社会、生きることが苦しい社会を作り上げてしまっています。そういう社会に生きている人たちが待っている言葉は「君でなければ」という力強い呼びかけ、そして「君をこそ」という真摯(しんし)なメッセージです。

  *      *      *

旧約聖書イザヤ書43章1〜4節には次のように述べられています。

「あなたを創造された主、あなたを造られた主は、

今、こう言われる。

恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ

水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。

大河の中を通っても、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、焼かれず、

炎はあなたに燃えつかない。

わたしは主、あなたの神、あなたの救い主。・・・

わたしの目にあなたは価高く、貴い。

わたしはあなたを愛している。」

 名前を呼ぶということはいったいどういうことなのでしょうか。人の名前は他の人の名前と単に区別するための記号ではありません。自分の名前が呼ばれるということには、マイナンバーで呼ばれることとは全く次元の違った意味があります。イザヤ書のこの箇所には「名を呼ぶ」ことの根源的な意味について述べられています。

 名前を呼ぶという行為は、言葉による様々な行為、たとえば、「慰める」、「赦す」、「約束する」、「誓う」、「願う」、「教える」、「約束する」などの一連の行為の中でも大切な一つですが、名前を呼ぶという行為によって、どのような現実、そして自分の中で真に響く真実(リアル)が生まれているのでしょうか。

 聖書の中で神が人間に対して「あなたの名を呼ぶ」と書かれているのは、イザヤ書43章1節と45章3節だけです。もちろんここで「あなた」というのは自らの罪に対する罰としてバビロンへの捕囚の民となったイスラエルのことを指していますが、このイスラエルを通して全人類に救いが及ぶということから、神の人間に対する愛、すなわち、一人ひとりの「名を呼ぶ」ことの意味はこのイザヤ書43章1〜4からは次のように読み取れるでしょう。

 ①わたしにとってあなたは掛け替えのない存在である。

 ②わたしはあなたといつも一緒にいる。苦難のときも幸せなときも。そしてどんなときも、あなたを守る。

 ③苦しい時にはあなたを力づけ、励まし、助け、あなたが自分で克服できないときには必ずあなたを救う。

 ④たとえあなたがどのような人間であっても、わたしにとってあなたは価高く、貴い存在である。

 ⑤わたしはあなたを無償の愛で愛している。

  *      *      *

 『君の名は。』という映画は、身体が互いに入れ替わるというユニークな経験を通して、運命的な他者に出会い、その相手の名を呼び相手を探し、それに答えていく世界へと入っていくというストーリーの展開になっていますが、この映画を見た人が、あらためて自分の名が呼ばれることの新鮮さを体験し、根源的かつ運命の他者の声に耳を澄ませ、その呼びかけに答えることで、そこから始まる新しい世界と自分に求められている使命に気付くことができれば、今私たちが生きているこの日常世界の未来はまた違う新たな展開をしていくのではないでしょうか。

 

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            【預言者イザヤ:ミケランジェロ 「システィナ礼拝堂天井画」】

 



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ふれあい10月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

   赦すこと、信じること、仕えること

       愛の共同体における父と子と聖霊の働きについて

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

「赦し」

 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

「信仰」

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

「奉仕」

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

        (年間第27主日福音朗読 ルカ福音書17章1〜10節)

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 ルカ福音書17章1〜10章はイエスと弟子たちの間の一つづりの対話として描かれていて、初代キリスト教共同体作りに欠かすことができない規範をイエスが与えようとしていることがうかがえますが、その論理の流れを追っていくのは少し難しい。新共同訳聖書には「赦し、信仰、奉仕」というタイトルが付けられているので、それぞれの段落が「赦し」「信仰」「奉仕」というテーマで語られていることはすぐわかります。しかし、「赦す」「信じる」「仕える」という三つの行為がどのように関連しながら共同体作りにつながっているのかが見えにくいのです。

 そこで、この部分の並行箇所であるマタイ福音書18章に描かれている天の国の共同体の規範と比較してみると、この三つの行為はルカ独自の共同体形成の規範、あるいはマタイの規範を発展させたものであることがわかります。

  *      *      *

 共同体を形成するときに最も障害になることは、「つまずきを与える者」の存在です。マタイもルカも「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ187、ルカ171)と述べています。

 「つまずき」を意味するギリシャ語のスカンダリオンσκανδαλιοvという言葉はもともと「獣などを捕らえる罠(わな)(スカンダロンσκάνδαλαον)から来ていて、人を罠に陥れようとすることなので、「つまずかされた者」はその罠にはめられてしまったことになります。

 しかし、日本語の「つまずき」という言葉は、たとえつまずいた原因が自分以外のものにあっても、自分が犯した失敗やあやまちという意味になるし、今や日本語としても使われている「スキャンダル」という言葉も同じギリシャ語スカンダリオンσκανδαλιοvから来るもので、本来は信頼という罠にかけて相手を裏切り、その人をつまずかせる行為ですが、日本語では「不祥事(ふしょうじ)」とか「醜聞(しゅうぶん)」という意味で本人が自分で名声を汚してしまったというニュアンスに変わってしまっています。

 それに対して、聖書が言う「つまずき」にはその根源にその人をつまずかせようとする意図や悪意があるのであって、「つまずいた人」はまんまと「はめられた」のであり、つまずいた原因はその人の中にはありません。

 「つまずいた者」は失意の中で絶望するかもしれないし、あるいはつまずかせた者に対する復讐心を燃やすことになるかもしれません。いずれにしても愛と真実である神から遠ざかってしまうことで共同体との絆やつながりを失ってしまいます。イエスがこの「つまずき」がもっている共同体を破壊していく負の力の危険性をまず指摘している理由はここにあります。

  *      *      *

 マタイとルカは「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼(うす)を懸()けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(マタイ186、ルカ172)と叱責(しっせき)しています。

 その後に続く「つまずかせた者」に対する対応は、マタイとルカでは対照的です。

 マタイの方法は律法主義的であり、段階的な措置を取っています。すなわち、①兄弟があなたに対して罪を犯したなら、二人だけのところで忠告すること。②もし聞き入れなければ、他に一人か二人一緒のところで忠告すること。③それでも聞き入れなければ、教会に申し出ること。④教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なすこと。最後の措置は共同体からの破門を意味する非常に実際的な方法です。(たとえその後に赦しのテーマが描かれているとしても、このような法的な措置が先行しているところがマタイの特徴であると言えます。)

 それに対してルカは、「あなたがたも気をつけなさい」と注意喚起したあとに、三つの対応の仕方について述べています。①もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。②そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。③一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。これはマタイが述べたような段階的な措置ではなく、一言で言って罪を犯した者に対する無償の愛と赦しとしか呼べないものです。

 自分を罠に陥れた者を全面的に赦し、また何度も同じ罪を繰り返してもまた赦すということがどのようにして可能になるのでしょうか。恐らく同じ疑問をイエスの弟子たちも抱いたはずです。だからこそ、自分たちの弱さを自覚している使徒たちが次のところで、「『わたしどもの信仰を増してください』とイエスに言った」と書かれているのでしょう。

 何度も同じ罪を繰り返す者を赦すという人間として不可能な行いをするために不可欠なものは「信仰」以外にはありません。赦しのテーマの後に深い信仰のテーマが現れている理由がここにあります。

 自分には不可能なことであっても、そのような自分の不完全さを根底から支え、励まし、力を与えてくれる神の働きを信じ、すべてを神に委ねて意志的に行為するときに果たしてどのようなことが起きるのでしょうか。

 イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ176)と述べています。

 「桑の木」というイメージを使ってルカは、共同体内部に根を下ろして人をつまずかせる破壊的な負の力を表しているのでしょう。イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」、他の兄弟をつまずかせて海に投げ込まれる方がましである兄弟さえも回心して聞き従うと言っています。

  *      *      *

 「信じる」という行為と、次の「仕える」という行為はどのようにつながるのでしょうか。恐らく、イエスが「信仰」と「奉仕」の密接な関係を説いているのは、信仰が単なる熱狂・狂信(ファナティズム)の罠に墜ちないようにという戒めなのではないでしょうか。それゆえ、ルカは、そしてルカだけが「あなたがたも気をつけなさい」(173)とわざわざ釘(くぎ)を刺しているのです。

 信仰をもっていると自負する人は、自分が正しいと思い込んでしまうとなかなか客観的にものを見ることができず、とかく独善的になりがちな傾向があります。イエスはその危険性も十分に認識しています。信仰には他者の弱さ、苦しみや痛みにも共感し、それに奉仕するという愛の純粋性と普遍性が伴わなければ決して本物とは言えません。

 また、信仰は極めて内面的な行為で、外からはうかがい知ることができないように思われますが、その人が信仰をもっているかどうかはその人がどのように行動しているかによって自ずから明らかになっています(ヤコブ218参照)。

 それは「仕える」ということです。何らかの見返りを期待して行うということではなく、他者本位に他者の善に対して奉仕する、何の見返りがなくても無償で仕えるということは、神への信仰がなくては行うことができません。

 神は私たちがどんな人間であっても全面的に私たちを赦してくれます。神はイエスが弟子たちの足を洗って示したように僕(しもべ)のように私たちに仕えています(ヨハネ13・1〜17)

 神が神の子イエスを通して私たちにくださった赦しと奉仕をつなぐものは信仰です。なぜ私たちは赦さなければならないのか。なぜ私たちは仕えなければならないのか。その唯一の理由は神が私たちにくださった全面的な赦しと全き奉仕(神の子の十字架上の奉献)にあります。神は私たちの全ての罪を赦してくださると信じることができるとき、私たちの神に対する債務を返すことができる方法は、他者の罪を赦すこと、そして兄弟に仕えること以外にありません。

 信仰がない人は人を赦すことができません。信仰がない人は人に仕えることができません。その逆もまた真です。真に他者の罪を赦すことができる人、心から相手に仕えることができる人には信仰があります。

 ルカはつまずきが避けられない共同体の生活の中にあって愛の共同体を作るためには、赦しと信仰と奉仕が不可欠であるということをこれらの規範を通して示したかったのではないでしょうか。

 そしてそれは、「赦す」という唯一の権限をもつおん父の力と、「信じる」という究極の意志をもつおん子の従順と、「仕える」という無償の愛のたまものである聖霊の働きによる三位一体的な営みによって活かされている共同体のすがたなのではないでしょうか。それは愛の共同体における父と子と聖霊の働きに私たちが与ることにほかならないのです。

 

Leandro da Bassano.jpg

      【レアンドロ・バッサーノ:三位一体



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ミサの時刻 Mass Schedule [ご案内:About Us]

平日 月曜日、火曜日、水曜日 午後5時半から

 Weekdays:Monday to Wednesday  17:30

*第2、第4火曜日は午前10時から聖書の勉強会があります。ミサは午前1130分からです。

*We have Bible studies on the second, the forth Tuesday from 10:00 a.m. The mass is from 11:30 a.m.

 



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ふれあい9月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

 「もっとも小さいいのちのひとつにしたことは、

         わたしにしてくれたことなのである」

                     (マタイ福音書25章40節) 

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 私が好きな童謡の中に江間章子さんが作詞し、中田喜直さんが作曲した『夏の思い出』という歌があります。たしか中学校のころ音楽の教科書に出ていて、今でもときどき綺麗な自然の風景を見た時に、ふとその歌詞とメロディーが心の中で奏(かな)でられていることがありました。

『夏の思い出』

夏がくれば 思い出す

はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空

霧のなかに うかびくる

やさしい影 野の小径(こみち)

水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている

夢見て咲いている水のほとり

石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる

はるかな尾瀬 遠い空

 

夏がくれば 思い出す

はるかな尾瀬 野の旅よ

花のなかに そよそよと

ゆれゆれる 浮き島よ

水芭蕉の花が 匂っている

夢みて匂っている水のほとり

まなこつぶれば なつかしい

はるかな尾瀬 遠い空

 たとえ尾瀬に行ったことがなくても情景が自然に心の中に浮かんでくる美しい日本語の詩であり、長い間尾瀬に行くチャンスがなかった私にとっては、尾瀬は心の中の「はるかな尾瀬」でした。

 そんな尾瀬の自然を実際に見てみたいという思いが強くなり、思い立ったが吉日、夏休み休暇中車を飛ばして、宇和島からは文字通りはるかな尾瀬まで行ってきました。

 尾瀬は四方を二千メートル級の山々に囲まれた盆地である「尾瀬ヶ原」とその上流域にある「尾瀬沼」から構成されていて、それぞれ標高1,400メートル、1,660メートルと高原に位置している湿原であるため、約一万年前氷河期に成立したときに生育していた寒冷地の植物がそのまま今でも自生している貴重な自然環境です。

 尾瀬の周辺は自然保護のためマイカー規制が強化されていますが、ミズバショウやニッコウキスゲなどが咲く初夏のベストシーズンから外れていて土日ではなかったということもあって今回は鳩待(はとまち)峠まで車まで行くことができ、一日目はそこから尾瀬ヶ原の湿原に整備されている木道のほぼ全コース、山の鼻、川上川橋、牛首分岐、竜宮(りゅうぐう)十字路、六兵衛堀、見晴(みはらし)、ヨッピ吊橋、拠水林など全20キロを歩きました。台風7号の影響もあって午前中曇っていた雲行きがさらに怪しくなり午後は時々激しく雨が降り注いできましたが、視野の果てから果てまで湿原の瑞々(みずみず)しい緑が広がる絶景の中で浴びる雨もまた格別なものでありました。

 二日目は尾瀬ヶ原に比べて少し標高が高い尾瀬沼に行くために大清水登山口に車を停めて、そこから三平(さんぺい)峠を目指して登っていきました。前日の天気とは一転して快晴でありましたが、前日に降った雨が登山道にしみてきて川のように流れるところもありながらも、沢(さわ)あり涌(わ)き水ありの水の豊かさを堪能(たんのう)しながら三平峠から下っていくと眼前に広がる尾瀬沼越しに東北地方最高峰、標高2,356メートルの燧ヶ岳(ひうちがたけ)を眺めることが出来ました。

 尾瀬沼は周囲6キロメートルの沼で、水がきれいに澄んでいるのでほとんど湖のようにみえます。最大水深は8,5メートルで、それ以外の所が水深5メートル以下ということで沼と名付けられているのでしょう。

 一番の特徴は標高1,660メートルに位置しているので沼の水面(みなも)から雲までの距離がとてつもなく近く、水面に雲が鏡(かがみ)のように映し出されていて、空と大地が一つになっているような不思議な感覚を醸(かも)し出しています。尾瀬沼はまさに天空の湖でした。

  *      *      *

 尾瀬は日本における自然保護運動発祥(はっしょう)の地です。1903年にはすでに尾瀬ヶ原ダム計画が明らかになり、1919年に関東地方において水力発電を推進していた関東水電株式会社(現東京電力)は群馬県に対して水利権の申請を行い、1922年に取得しています。この計画に対して一人で反対運動を起こしたのが平野長蔵です。ダム計画が明らかになった1903年に尾瀬沼西端の沼尻に最初の山小屋(長蔵小屋)を立て、そこに永住しながらダム計画に対する反対の意思を示し、尾瀬の自然保護を訴えました。そして彼の死後は、子の長英、子孫の長靖が小屋に住み続け、ダム計画反対および道路建設反対に身を投じたのです。

 折しも1949年,彼らの運動をあと押しするかのようにNHKが尾瀬を扱った『夏の思い出』を放送すると、この曲によって尾瀬は一躍有名になり多くの観光客が訪れるようになりました。さらに、尾瀬の自然を守ろうとする文化人や登山家が彼らを支援することで、この自然保護運動は単にダム建設反対という趣旨を超えて、スーパー林道建設反対やゴミ持ち帰り運動など日本の自然保護運動の先駆けとしての役割を果たしていくことになります。

 こうした自然保護運動が環境行政を促し、1953年尾瀬は「国立公園特別保護地域」に指定され、さらに1956年に天然記念物、続いて1960年には特別天然記念物に指定されることで、東京電力は1966年尾瀬ヶ原ダム計画を凍結せざるを得なくなり、反対運動はやっとその実りを見ることになります。

 最終的な決着は、1996年東京電力が尾瀬沼の水利権更新を断念し放棄したことによって尾瀬ヶ原ダム計画が完全に終焉を迎えたことによりますが、この背景には関東分水に反対する他県の強い抵抗など行政的な事情もあったようです。尾瀬の自然がダム水没の危機を脱出することができたことは本当に喜ばしいことです。

  *      *      *

 尾瀬を実際に歩いてみると、自然をそのままに保護するためのさまざまな取り組みがうかがえます。たとえば、ゴミはすべて持ち帰らなければならず、ゴミ箱は一切ありません。また、数カ所ある公衆トイレは1回あたり100円から200円程度で有料化されていて、排泄物の液体部分は浄化槽で排水しても問題がないレベルまで処理した後放流し、固体部分は乾燥させて固形にしたものをヘリコプターで運ぶためと書かれていました。

 尾瀬ヶ原と尾瀬沼の全域には木道が整備されていて、木道以外を歩くことは禁止されています。これは湿原を登山者の踏みつけから守るためで、複線の木道がきれいに整備され、歩行者は右側通行するルールなので対面者とスムーズにすれ違うことが出来ます。木道には設置された年度の焼き印が入れられ、いたんだ所は随時補修されていました。また、木道を整備する係の人が巡回していて、木道間を固定するくさびが緩くなっている所に新たなくさびを打ったりしているところも目にしました。

 尾瀬の自然をみんなで守ろうという気概(きがい)が出会う一人一人に感じられ、清々しい思いで帰路につくことができました。

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 『夏の思い出』を作詞した岩手県西根町出身の江間章子さんが生前にテレビのインタビューの中で、若い人たちに対するメッセージをと聞かれて次のように述べていました。「やはり、今の高校生が、男の子も女の子も可哀想なのは、もっともっと自分が好きなものに夢中になれる時間、心の余裕をあげたいと思います。ただ勉強ができていいとか、上の学校の試験に通るとかだけで過ごさせるのは可哀想ですね。」

 そして、将来すてきな大人になってもらうために岩手のどんなところを見てもらいたいですかという問いかけに対しては、「自然がずっと変わらないでほしいと思います。自然は両親と同じくらい、それ以上に影響を与えます。子どもは大きくなれば親離れします。親がなくても子どもは生きていかなければならないし、そうなると思うけれど、自然だけは、何か本当に困ったときに、ふっと浮かんでくるのは自然だと思います。そういう意味で岩手の自然はそのままにあってほしい」と答えられていました。

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 自然への愛と神への愛は決して矛盾するものではありません。深く自然を愛する人は神を深く愛する人です。なぜなのでしょうか?

 それは、自然は人間のために神に創られたものであり、人間の人間性を育むもっとも重要な環境でありながら、神に創られた生きとし生けるものの中でもっともか弱い存在であり、しかも自分の弱さや苦しみについて自分で声を上げて叫ぶことができないからです。

 イエスは次のように述べています。「あなたたちは私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。はっきり言っておく。私の兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのです」(マタイ253540)。もっとも小さな生きとし生けるもののいのちの苦しみに共感し、できる限りの支援することはイエス・キリストを通して示された神の心にほかなりません。

 それゆえ、そのような自然の弱さや苦しみの声をすくい取り、それを守ろうとした一人の人の熱意に多くの人が共感しながら守り通した尾瀬の自然は、そこを訪れる多くの人々に大切なメッセージ、すなわち、私たちは自然や動物を含めたすべてのいのちあるものの中でもっとも弱いものの声に絶えず耳を傾け、その苦しみに寄り添いながら、みんなで協力して限りない支援をしていかなければならないというメッセージを発し続けているのではないでしょうか。

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          【盲人を癒すキリスト:グレコ】

 



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ふれあい8月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

   常識をくつがえすジョーシキという真実について 

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 真実を語るということが実は非常に難しいことであるということは一般にはあまり自覚されていません。言論が自由な国であればあるほど、真実を述べることくらいいつでもたやすくできると高をくくっているからであり、私たちはどのような最悪な現実であってもその現実に長時間曝(さら)されて慣れてしまうと、それをもはや当たり前と思ってしまうからです。

 たとえば、学校では宿題が課せられるということは少なくとも日本やアメリカを含む先進諸国では当たり前のことです。そして、それは単に当たり前であるだけではなく、もし宿題がなければ子どもたちは勉強しなくなり学力は下がってしまうから宿題は必要なのだと、宿題を出すことを理にかなったことだと私たちは考えてしまいます。

 しかし、もし宿題もテストも一切ないのに生徒の学力が世界でナンバーワンである国があるとしたら私たちが持っている常識は根底から覆(くつがえ)されてしまうのではないでしょうか。

 ドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーアの最新作『世界戦略のススメ』には一般の常識を覆す世界の驚くべきジョーシキの数々が紹介されていて面白い。このドキュメンタリーのコンセプト(基本的構想)は、ベトナム、イラク戦争など、これまで数々の戦争を主導してきたアメリカの国力と権威の現在の失墜を正すべく、ムーア監督自らが“侵略者”となって世界各国に出撃し、各国の優れたジョーシキをアメリカに持ち帰るというものです。

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①イタリアのジョーシキ。

 イタリア共和国では1年間の有給休暇が8週間あり、もしその年にそれを消化できなかった場合には翌年に繰り越して取ることができます。また、どこの会社でも昼休みはたっぷり2時間あり、多くの人たちは一時帰宅して家族と昼食を取っています。休暇はストレス解消になり労働効率が上がると会社が推奨しているにもかかわらず、イタリアは生産性の高い国ランキング15位内に入っています。ちなみにOECD(経済協力開発機構)2014年調査によるとイタリアは8位、日本は22位で、日本は主要先進7カ国では1994年から20年連続で最下位となっています。

②フィンランドのジョーシキ。

 フィンランド共和国が世界で学力ナンバーワンであることはよく知られていますが、フィンランドの教育にはそもそも宿題とテストという制度がなく、子どもたちが帰宅後、家で勉強する時間はほんの数十分程度です。授業は週20時間で年間の授業時間はヨーロッパ最短ですが、授業を減らしたら逆に学力が伸びたといいます。

 どうしてこのようなことが可能なのでしょうか。フィンランドの学校では学校長を始め、教員の全てが、学校とはどのようにすれば人生を幸せに生きることができるのかを生徒一人一人が学ぶ場であるという理念を共有しています。だから、テストの点数を取ることを決して教育の目的にしないで、生徒の関心や個性を最大限に活かせるように様々なプログラムが提供され、能力に応じたカリキュラムで自分のこれからの人生を大学に入る前から設計し構築することができるのです。

 これはキャリア教育とそれに必要な知識と技術の習得が一体化した教育であり、生徒たちにとっては自分の勉強に対するモチベーションは自ずから上がらざるを得ません。学力の競争をあおって、結果優秀な者と落ちこぼれる者を必然的に作ってしまうシステムとは対極的な教育なのです。

 何のために勉強しなければならないのでしょうか? フィンランドの学校の教員の全てが、たとえそれが数学の教員であっても、それは幸せになるためであると答えていました。そのような人生哲学を、ある意味、人間としてとてもシンプルでかつ根本的な原則に誠実に、そして忠実に従いながら生徒を見つめ指導している教員全ての言葉には嘘が感じられないということが素晴らしい。

 それは「努力すれば誰でも何にでもなれる」と謳(うた)い、個々人の努力の結果をすべてその生徒の自己責任に転嫁する嘘っぽい言葉とはまったく質の違う教育なのです。すべての人間はたった一人の例外もなく、幸せになるためにこの世に生まれてきたのであるということを真摯に実践していることが最大限の教育的効果を及ぼしていることは明らかです。

③ノルウェーのジョーシキ。

 ノルウェー王国では刑務所は監獄のようなものではなく、更生が進んでいる囚人には一軒家と玄関のカギが与えられ、また、殺人で服役していても優良な囚人には調理作業のためにナイフや包丁が与えられています。

 看守にとって重要な役割は囚人の監視ではなく、囚人の社会復帰のためのサポートです。看守は誰一人ピストルを携帯しないで、囚人は看守と対等の対話を行っています。また、100人以上の囚人を週末にはたった4人の看守が、しかも別の建物で行うことができます。さらに、ノルウェーには死刑制度はなく、大量殺害のテロリストであっても最長刑期は21年であるにもかかわらず、世界で最も再犯率が低いといいます。

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 他にも、フランス共和国においては食事も教育の一環と考えられ、すべての学校でデザート、チーズ付きのフレンチ・フルコースが毎日当たり前のように出されていることであったり、スロベニア共和国においては大学の学費はすべて無料で、若者に借金を負わせない教育システムを国家が主導して行っていることであったり、麻薬を合法化して逮捕者をなくしたら麻薬の使用率が減ったポルトガル共和国の犯罪の現実であったりと、いわゆる一般の常識を超えている事例が数多く紹介されています。

 これらすべての事例に共通することが一つあります。それは一人一人の人間の尊厳が限りなく大切にされているということです。労働者にも生徒にも犯罪者にも若者にも女性にも子どもにも尊厳があるという当たり前の真実に真剣に向き合うという姿勢が、国家としても社会としても組織としても、政治家としても教師としても社長としても警察としても一個人としてもまったくぶれていません。人として何を一番大切にしなければならないのかという理念を全ての人が共有しています。

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 真実とは何であるのか? という問いに対する答えは二通りあります。たとえば「そのトイレの状態はどうですか?」という問いに対する答えとして、「そのトイレは汚れています」という答えは、もしそのトイレが実際に汚れているなら、その答えは正しいと言えます。目の前の現実を忠実に写実することもまた真理の一端をなしているからです。

 しかし、「次の人が使うことを考えて、トイレをきれいにしなければなりません」という答えはさらに倫理的な真実を述べています。誰かがトイレをきれいにしてくれていたという出来事を目の前にして、自分もきれいにしなければならないと気付くことでその真実が次の人へと繋がっていきます。真実は常に一人の人から次の人へと手渡しによって伝えられていく出来事のリレーのようなものです。

 一般の常識を超えたジョーシキが社会の常識になる過程は、百聞は一見にしかずという新たな現実を目のあたりにした人たち一人一人の真実の発見の実践の賜物です。

  *      *      *

 ヨハネ福音書6章には、五千人に食べ物を与える奇跡を見て従って来た群衆とイエスの間の対話が記されています。

 イエス:「朽(く)ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である。」

 群衆:「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」

 イエス:「神がお遣(つか)わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 神が行う奇跡は、どうしようもない悲惨な現実の中で人間が無力を感じているところにそれを解消する新しい出来事をもたらすことによって、人々にあるべき真実の在り方を実際に実現し、それを新しい現実のモデルとして提示します。真実は常に現在の不完全な状態を未来に向かって改善するために訪れる新たな出来事として私たちに示されます。

 「神がお遣わしになった者を信じること」とは何を意味しているのでしょうか。それは、この世界におけるもっとも弱い人の立場に立って、その人たちの苦しみと悲しみを自分自身の痛みとして共に苦しみ、その痛みを取り除くために最大限の努力を注ぎ、そのために自らの全てを捧げたキリストの愛は、この世に実際にもたらされた天のおん父の思いと愛の出来事に他ならないということを信じて私たちもそれに従うということに他なりません。

 そのように考えると、もっとも弱い人の立場に立ってその人たちの尊厳を大切にすることで、一般の常識を超えて言わば永遠の実りをもたらしている様々な世界のジョーシキは、イエスがもたらした真実を継承している実践ということができるのではないでしょうか。

 

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  【重い皮膚病を患っている人を清くするイエス:マルコ福音書1・42】



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ふれあい5月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

  わたしは道であり、真理であり、いのちである 

           (ヨハネ福音書14章6節)

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 宇和島市の背後に連なる鬼ヶ城山系は南予アルプスとも呼ばれ、千メートル級の山々の峰がすべて尾根で繋がっています。最も北に位置し、四国西南地域の最高峰である高月山(標高1,229m)から、四万十川の源流の一端をなす滑床渓谷を囲むように聳(そび)えているこの峰々を一周すると、高月山から梅ケ成峠を経て、毛山(1,089m)、鬼ヶ城山(1,151m)、そこから南西にアザミ峠を経て宇和海を見下ろす権現山(952)、東方向に大久保山(1,155m)、八面山(1,166m)、そして日本三百名山の一つである三本杭(1,226m)、横ノ森(1,200m)、御祝山(998m)と続いています。

 せっかく宇和島にいるのだからと思い、地図に載っている南予アルプスの登山道をすべて一人で歩いてみました。登山者の多くは「鹿のコル」という林道を車で上がった標高1,030メートルのところにある尾根から登っていますが、私はこの林道は使わずに、麓(ふもと)にある成川渓谷、滑床(なめとこ)渓谷、薬師谷渓谷からの登山口を拠点にして登りました。

 地元の人が林道と区別するために“うさぎ道”と呼び慣わしている登山道にはところどころに赤いテープのしるしが木につけられていて、それを頼りに進むことができます。しかし、地図上は登山道があると記載されていてもあまり人が通らないところは山道の上を木々の枝が塞いでいたり草が生い茂っていたりして、どちらに進んでいったらいいのかわからなくなります。そういう時は地図と方位磁石で自分の位置を確認しながら、目指す方向に向かって登っていくしかありません。

 いつもはあたりまえのように町中の道を歩き、さまざまな可能性の中の一つとして道を選ぶことができても、一歩間違えば沢に滑落したり、場合によっては遭難したりする危険がある山道を歩くときには、ひとつの道の重みは普段とは全く異なってきます。

 ほんとうに道に迷ってしまったときに果たしてどちらに進んでいけばいいのか。木々に囲まれた山の中で判断するときの全身の感覚はいつにもなく研ぎ澄まされてきます。山道を歩くときには人の心を命の原点に向けて整えてくれる何かがあるように思います。

 なぜ人は山に登るのでしょうか。山には神が創った自然以外何もありませんが、他の何にも代えがたい解放感と自由があります。この解放感と自由は、まず、神が最初に人間を創った時にアダムが有していた自由な実存、すなわち、土地や建造物のような定住的形態や価値からまったく自由な人間の原初的在り方から来るものです。山は誰のものでもなくただ神のものであり、誰もそれを自己所有することはできません。しかし、神のものであるからこそ誰でも自由にその恵みを享受することができます。そのことが人間の本来的な自由な在り方を如実に物語っています。

 そしてまた、それは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ」(マタイ5・45)、正しい者をも正しくない者をも山のふところに受け入れてくださる天の父の包容力の広さと深さから来るものでもあります。山は天の父の底知れない寛容性を申し分なく現しています。人は作為性のまったくないこの純粋な包容力に魅了されるのです。

  *      *      *

 聖書の中には「道」という言葉が数多く出てきます。これは単に地図上にある道を指すのではなく、人間の生き方の比喩として、「神の道」、すなわち「まことの道」、「完全な道」、「いのちの道」について語られています。

 イスラエルの歴史はアブラハムが神の呼びかけに応えて生まれ故郷を旅立ったことから始まりました(創124)。遊牧民であったイスラエルの民にとって「道」は生活の要(かなめ)であったことは間違いありません。しかし、その旅はさまざまなリスクを背負った冒険であったからこそ、彼らにとって「道」は生活に必要な道という日常の意味を超えて、自分たちが真に目指すべき道、すなわち「神の道」であるという認識を深めていきました。

 神の道を歩んできたイスラエルの歴史を振り返ってみると、この道が段階的に指し示している三つの方向性、すなわち、脱出、自律、新しい旅立ちがあることがわかります。そしてこの方向性は聖書を読む全ての人にもまた同じ方向性を示唆しています。

1.脱出

 それはまず、隷属状態からの脱出です。イスラエルの民が体験した最も大きな神の出来事はエジプトからの脱出でした。

 もともと遊牧民であったイスラエルの民は一時エジプトに寄留していた時代がありましたが、彼らの数があまりにも多くなりすぎたゆえに、反乱を恐れたエジプト人はそれ以上の増加をくい止めるために彼らに重労働を課して虐待し始めました。さらにエジプト王ファラオは生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込むように全国民に命じました。

 他者を有無を言わせずに自分の命令に従わせようとすることが暴力であることは明らかです。イスラエル人たちはこのような状況の中で自分の意志や判断で行動することはできず、本来あるべき自分のあり方が失われていたという意味では非人間的な生き方を強いられていました。

 イスラエルのこの悲惨な状態が神の憐れみの心を動かします。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる所へ彼らを導き上る」(創378)。

 この脱出の体験を通してイスラエルの民は「神とともに歩むこと」(ミカ68)を学び、「私の道はあなたたちの道とは異なっている」(イザヤ558)と言われる神の道を歩みながら、最初に神に与えられた本来の自由へと向かってくことになります。

2.自律(自由の内面化)

 イスラエルの民はエジプト脱出後、約束の地に着いても、それで神の道を歩むことを止めたのではありませんでした。神は「知恵を神の命令の書であり永遠の律法」(バルク41)として彼らに与え、「知識の道をすべて与えました」(同337)。

 自由を手にするためには束縛状態から解放されていることが必要ですが、ここでその自由をどのように使っていくのかという新たな課題が出てきました。そこには善悪二つの道があります。よい道、まっすぐ完全な道は正しいことを行い、真理に忠実で平和を追い求めます。逆に、悪い道、曲がった道は滅びと死に繋がります。

 自由な選択の中でどの道を選ぶのかということは、人間が成熟し、自律していくために大切な課題です。しかし、イスラエルの民はこの掟に対して不従順であったので、道を踏み間違い、エジプト脱出とは逆の方向である流謫(るたく)の身を余儀なくされました。それがいわゆるバビロン捕囚の出来事でした。

3.新しい旅立ち

 主の昇天の主日第二朗読ヘブライ人の手紙の中に、第二のモーセであるイエスが切り開いた道について次のように述べられています。「イエスはご自分の身体を通して、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」(ヘブ1020)。このメシア時代の脱出はもう一つの新しい旅立ちであり、私たちを確実に神の安息である天にまで導いてくれます(ヘブ489)。

 なぜなら、イエスは栄光に入る前に十字架の道を歩み、自らをいけにえとしてお献げになりましたが、このいけにえは旧約の捧げ物とは違い、天そのものに達するものであり、私たちに天への道を開くものであるからです。

 キリストが開いた道は掟の道とは異なり、キリスト自身が道となっています(ヨハネ146)。それはキリストが愛したように私たちも愛するという(同13341512)愛の道であり、キリストを通して、彼が私たちに送る聖霊のうちに天のおん父に近づくことができます。

  *      *      *

 フランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェイユが『根をもつこと』という書物の中に書いた祈りに次のようなものがありました。自分は常に真理の道を歩もうと思っているけれど、自分が今真理の中にいるという思い込みは、もしかしたら自分の単なる思い違いであるかもしれない。しかし、神は真理そのものであるから、たとえ自分が真理から逸(そ)れていても神自らが自分を真理の道に連れ戻してくださいますように。

 誰でも自分が歩いている道が正しいことを願い、命が与えられていることを日々感謝しながら生きたいという思いをもっていると思います。時に道に迷いあてもなくさまようことがあるときに、時に道を失い自暴自棄になってしまうときに、私たちを正しい道に導いてくれるのは真理そのものである神です。

 イエスが「わたしは道である」というときに、それはただ一つの道、唯一の道という意味ではないと思います。イエスが「わたしは道である」というのは、私は人間のすべての苦しみの道を歩いてきた。だから、どのような苦しみの中にも私がいて、いついかなるときもあなたと共に歩いているということなのではないでしょうか。私たちがたとえどのような道を歩いていても、そこにイエス自らが歩んだ愛の道を見つけることができるならば、私たちはイエスと共に真理といのちに向かって歩んでいくことができます。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)という言葉が真実になるのです。

 

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        【ポール・ゴーギャン:黄色いキリスト



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ふれあい3・4月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

   神は沈黙を通して語る

       受難物語におけるイエスの沈黙について

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 「沈黙は金」という言葉があります。雄弁に語ることは大切ですが沈黙すべき時をわきまえていることはもっと大切であるという意味です。たとえ語ることがあっても、意図して沈黙を貫いているとすれば、その沈黙には言葉を超えた言葉があるのでしょう。そのとき沈黙は雄弁よりもさらに真実を雄弁に語っています。

 愛する者は、相手が語る言葉よりも、むしろ相手の沈黙の中により多くのことを聞き取ることができます。自分の苦労や苦しみや悲しみについて語らなくても、それが理解されているときに本当に心が通じていることを実感するものです。

 沈黙の中の言葉を聞き取るためには、こちらもまた沈黙しなければなりません。最も深いところにある言葉は静寂の中にあってもさらに耳を澄まさなければならないほど微(かす)かに響いています。

 旧約聖書の中で沈黙は神の言葉を聴くために必要なこととして語られています。たとえば、神への信頼を主題にしている詩編62の冒頭には「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。・・・・・・私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている」(26節)と語られていて、詩人が沈黙のうちに神を待っていたときに語られた神の言葉によって結ばれています。「ひとつのことを神は語り、ふたつのことを私は聞いた。力は神のものであり、慈(いつく)しみは、私の主よ、あなたのものである、と」(1213節)。

  *      *      *

 神の言葉は人間の沈黙を通して聞き取らなければならないのであれば、神の言葉は神自身の沈黙から語られる言葉であると言えます。

 イエス・キリストが十字架に架けられる前にピラトの尋問を受けた時、ユダヤの指導者たちである祭司長や長老たちはイエスを有罪にしようとして彼にとって不利な証言を行います。しかし、「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思に思った」とマタイとマルコ福音書は語っています。

 ルカ福音書においてローマ総督ピラトは三度も「わたしはこの男に何の罪もいだせない」と主張しています。彼はイエスの裁判に関して中立的な立場にいて、できるならばイエスを釈放したいと考えていました。ピラトは「あのようにお前に不利な言をしているのに、こえないのか」とイエスに迫りますが、イエスは「それでも、どんなえにもお答えにならなかった」と聖書は証言しています。

  *      *      *

 イエスの沈黙は十字架上の死に際しての神の沈黙と呼応して私たちに神の言葉を語っています。そこには三つの積極的な意義があります。

 一つは、敵をも愛の中に包み込もうとするイエスの覚悟であり、すべてのことを、たとえいかなる悪であり、どんなに不条理に満ちていようともありのままに受け止めるという意志的愛が示されています。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と十字架の上でおん父に赦しを希(こいねが)います。自らに悪をなす者の悪意の根本の無知を彼らの心の中にイエスは聞き取っています。

 二つ目は、イエスは社会の中でもっとも弱い人、もっとも小さくされている人の痛み、苦しみを自分自身のことのように痛み、その苦しみに深く共感し、彼自身がもっとも弱い人と同じ立場に立ち、苦しみを声にすることも言葉にすることもできない人々のところまで自ら下っていくことで、彼らの痛みと苦しみを全面的に受容し、彼らの沈黙の苦しみを傾聴(けいちょう)しています。

 三つ目は、これがもっとも積極的な意味をもつものですが、人間的に見てどのように希望がない状態であったとしても、おん父はイエスとともにあり、イエスをおん父の愛から切り離すものではないことがイエスの沈黙の中に私たちに見えるかたちで示されています。この沈黙はイエスにとっては天のおん父への全面的な信頼であり、また天のおん父にとっては神の子イエスを通してすべての人間に愛と許しを与えています。それが十字架という神の沈黙を通して私たちに語られている神の言葉なのです。

  *      *      *

 受難の主日に読まれるイエス・キリストの受難物語はピラトによる尋問から始まりますが、本来の受難物語は、過越祭の間際(まぎわ)に祭司長や律法学者たちがイエスを殺す計略を立てるところから始まっていて、そのあと最後の晩餐やオリーブ山での祈りが続きます。オリーブ山での祈りを最後に、次第に言葉数が少なくなっていくイエスは、自らすすんで神の沈黙の中に入っていくかのようです。

 イエスが十字架に架けられた時に、そこを通りかかった人々はイエスをののしって「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言います。また、祭司たちも律法学者たちや老たちと一に、「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。神にっているが、今すぐ救ってもらえ」とイエスを侮辱して言います。さらには、一緒に十字架に架けられていた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしります。

 十字架上のイエスには現象的には何事も起こりませんでした。しかし、この神の沈黙の中に神の言葉を聞いた人が十字架のもとに佇(ただず)んでいた人たちの中にいました。イエスのそばに立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」(マタイ2754、マルコ1539)と証言しています。

  *      *      *

 受難物語におけるおん子イエスの沈黙とおん父の沈黙の中に私たちも耳を澄ませて神の言葉を聴き取る必要があるように、おん父もまた私たちの沈黙の中の声を聴き取ってくださいます。イエスは私たちが祈るときにくどくどと述べてはならないと戒めています。

 なぜなら、「天の父は、願う前から、私たちに必要なものを知っておられるから」(マタイ68)です。この言葉は私たちにとって力強い心の支えになります。なぜなら、私たちは自分にとって本当に必要なものが何であるのかわからないことが多いからです。それにもかかわらず、天の父が私たちの思いを超えて真に必要なことを、私たちがたとえ声にしていなくても聴き取り、私たちの沈黙の中にある真実を見出してくださっているとするならばこれほど心強い弁護者(ヨハネ1416はいないからです。

  *      *      *

 現代社会には様々な情報が溢れています。しかし、大切なことは私たちがそれら膨大(ぼうだい)な情報を取捨選択することが出来る強靱(きょうじん)な知性を磨(みが)くことよりも、喧噪(けんそう)に満ちた社会の中にあってそのような喧噪から距離を取り、私たちが真に人間らしい生活を営むことが出来るような沈黙の中に身を浸(ひた)してみることなのではないでしょうか。

 一人ひとりの沈黙を通して聴こえる他者の声に耳を澄ませてみることの中には、かならず神の言葉もまた響き、はたらいています。「愛といつくしみのあるところに神はおられる」(答唱詩編322)からであり、「どんない事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ181920)からです。

 アンゲラン・カルトン_アヴィニョンのピエタ.jpg         【アンゲラン・カルトン:アヴィニョンのピエタ



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ふれあい2月号(2016年)巻頭言 [巻頭言:Message]

  「わたしについて来なさい」

       イエスが弟子の中に見ていること

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 イエスはなぜペトロを弟子として選んだのでしょうか? ペトロの召命についてはマタイ、マルコ、ルカ福音書がそれぞれ描いています。その理由が窺(うかが)われるのはルカ福音書においてです。

 イエスはペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じます。それに対するペトロの返答は「先生わたしたちは夜通し苦しましたが何もとれませんでした。しかしお言ですからを降ろしてみましょう」という言葉でした。

 ペトロが夜通し漁をしたけれど魚が捕れなかったことをイエスはすでに知っていたことは間違いないでしょう。イエスは行き当たりばったりに言葉をかけることはありません。その人を注視し、内面にある悲しみや苦しみを十分理解した上で語りかけます。

 マタイ、マルコ福音書によると、イエスが最初にペトロを見ていたのは、ペトロとその兄弟アンデレが湖でを打っているところからです。そして、彼らが舟から上がって、不漁ゆえに意気消沈して網を洗っていたところもずっと見守っていました。

 プロの漁師であるペトロは湖のどの場所に、どのタイミングで網を入れなければならないかを十分知っていたはずです。しかし自然相手の職業においてはすべてを自分のコントロールの下に置くことはできません。

 ペトロはイエスに次のように告白します。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」もしかしたらこのような不漁はこの日だけではなく、ここ数日、いや数週間続いていたのかもしれません。

 ペトロの漁師としてのプライドは傷つけられ、何のために苦労しているのかわからなくなり、先が見えない未来に希望が見いだせないまま途方に暮れていました。そのように打ちひしがれている心を看取ってイエスはペトロに声を掛けます。

  *      *      *

 自分の無力を自覚していること、これはイエスが弟子を選ぶときの大切な条件です。ペトロの心は打ちひしがれていました。それでも「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの招きに応えたのは、自分の無力を全面的に認めながらも、自らの「打ちひしがれた心」をイエスに捧げた行為とみるべきでしょう。

 罪を犯したダビデが詠んだと言われる詩編51には「神の求めるいけにえは打ちかれた。打ちかれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあります。

 たとえ心が打ち砕かれた理由が自らの重大な罪であったとしても、「打ち砕かれた心」を謙虚に神に捧げるならば、神の心は必ず動きます。それゆえ、天のおん父の心を自らの心とするイエスにとって「打ちひしがれた心」こそがイエスの心を動かしたのであり、イエスを通して神の愛がペトロに対して呼びかけられたと言えます。

 しかし自分の限界はあくまでもその人自身が、もうそれ以上は進むことができないと自分で定めたものであって、永遠の相に照らしてすべてを見ている神の目から見ればそれは限界ではなく、その人の更なる成長のための一通過点に過ぎません。

 信仰の言葉で言うなら、それは無限なる神の可能性の中で自分の有限な人生を再び立て直す生き方への転換点に他なりません。なぜなら、自分の無力を完全に知り、それを悟っている人だけが、自分の力を超える神に自分を全面的に委ねるという生き方を選ぶことができるからです。

  *      *      *

 徴税人マタイの選びについてはヨハネを除く各福音書が語っています。その描写は非常に簡潔です。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が税所に座っているのをかけて、『わたしにいなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスにった」(マタイ99)。ここでもマタイに声をかける前に、マタイの姿をじっと見ているイエスの眼差しがあり、一瞬にしてマタイの内面を洞察しています。

 バロック期のイタリア人画家カラヴァッジオが描いた『聖マタイの召命』という優れた絵画があります。ローマにあるサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の壁に掲げられたこの作品では、狭い取税所内の小さなテーブルを囲んで五人の男が座っていて、中央の髭(ひげ)を生やし、左手で自分自身を指している男がマタイ本人であると長らく見なされてきました。

 しかし、絵画が描かれてから実に四百年後の二十世紀後半になって、画面左端の俯(うつむ)いている若者こそがマタイではないかという新しい解釈があらわれました。

 髭(ひげ)の男がマタイであると解釈されてきた理由は、薄暗い部屋の中に入り口の扉(とびら)から差し込んでいる一条の光が中央の男をスポットライトのように照らし出しているからです。イエスが指さしている行為に反応して、「私のことですか?」とその男は問いかけているかのように見えます。

 絵に描かれた光の効果に誘導されて、これを見る者は中央の男を主人公にしたててしまうことはある意味自然な見方でしょう。しかし、これは画家カラヴァッジオが仕組んだことなのではないでしょうか。つまり、一見中央の男がマタイであるかのように見せかけて、実は真のマタイが誰であるのかということを暗示する仕掛けが隠されています。

 イエスが指さす指の方向をよく観察してみると、指先が少し下の方に曲がっていて画面左下で暗がりの中で俯(うつむ)いている人物に向かっていることがわかります。そして、先ほどの髭の男の手の表情をあらためて見てみると、自分自身を指しているというよりも、その人差し指は左隅の若者を指して「この若者ですか?」と語っていることがわかります。

 そして何よりも、絵全体の構図から言えることですが、入り口の扉から入ってくる光に照らされた部分と照らされていない影の部分の対比の中で、イエスは影の部分の中に立ちながら、同じ影の部分に沈んでいる若者を直視しています。それはあたかも人生の影の部分を歩んでいる者の深い悲しみと苦しみをイエス自らが自分のことのように痛んでいることを表しているかのようです。

 徴税人マタイはイスラエルを支配しているローマ帝国の手先となって納めるべき税金を自分と同じイスラエル人から徴収することで同胞の者から軽蔑され、罪人という烙印(らくいん)を押されています。できることなら他者を幸せにしたいと願う気持ちとは裏腹に、他者の反感を買っている矛盾した人生から来る彼の内面の絶望をイエスは確かに理解していました。

  *      *      *

 カラヴァッジオの絵画の中では暗がりの中で黙々とお金を数えている一人の若者の孤独が描かれています。若者は左手に財布を握りしめ、右手だけでコインの枚数を数えています。彼の表情を拡大して見てみるとその視線は手元のコインには向かわず虚(うつ)ろに宙に浮いているように見えます。

 自分は何のためにこの仕事をしているのだろうか。この仕事をすることが誰のためになっているのだろうか。仕事をすることの意味もそれによって喜んでくれる他者の顔も見えないまま時間だけが虚(むな)しく過ぎていきます。そして何よりも彼は自分自身ではそのような現状を打開することができないほど自分自身の無力を実感しています。

 そのように打ち砕かれたマタイの心をイエスは十分に理解していました。だからこそマタイはイエスにとって弟子としての選びの対象になりました。

 この絵画の中では、マタイはイエスに呼びかけられているにもかかわらず、そのことをまだ知らずにお金の計算を続けています。そのことにマタイが気付く直前の瞬間を描いているところにこの絵の素晴らしさがあります。

 なぜなら、もしマタイがそのことに気付くことができれば、それが彼の人生の中で最大の出会いの喜びとなったにちがいありませんが、その喜びが訪れる一瞬前の絶望を切り取ってカラヴァッジオは描いているからです。実際この絵画の構図の中で、この若者が顔を上げた瞬間、入り口から差し込んでくる光の中に彼の晴れやかな顔が浮かび上がるように描かれています。

  *      *      *

 選ばれる側の条件について語った後には、選ぶ側の資質について問うのが妥当でしょう。イエスがもたらそうとしていた神の国を一つの会社に譬えてみれば、イエスはいわば神の国をもたらすことを使命とするカトリック・カンパニーの最高経営責任者(CEO)と言えます。

 カンパニーという言葉が元々ラテン語のcompanio(コンパニオ)から来ていて、一緒にパンを食べる仲間という意味(com 共に+panis パン)があったことからすれば、カトリック・カンパニーという言い方はあながち間違っていないかもしれません。イエスは部下にとってどのような資質を備えているのでしょうか。

 それはとてもシンプルなポリシーに貫かれています。まず、選んだ一人ひとりを全面的に信頼しています。部下が自分の無力を自覚していながらも、それゆえに神の使命に捧げる覚悟をもっているならば、その人の自由と自主性を全面的に尊重します。イエスは宣教に当たって弟子たちに自分と同じすべての権限を与えて、その権限をそれぞれの自主性に応じて最大限に生かすように促します。

 また、それだけではなく、部下がその使命を果たすことがかなわなかったり、失敗したり、あるいはたとえそれを裏切ったとしても彼はその責任を自分のこととして全て引き受けます。

 それはイエスが十字架に架けられた出来事に集約されています。イエスは、人々の弱さ、裏切り、悪意のすべてを引き受けてそれらすべてを贖(あがな)う犠牲(いけにえ)として自らを捧げます。そのようなイエスの姿と十字架の意味に気付いたからこそ、弟子たちは最終的にはすべて最期までイエスに従ったのではないでしょうか。

 

Caravaggio.jpg            【カラヴァッジオ:聖マタイの召命 



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ふれあい9・10月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

    わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 「誰が受け入れられて、誰が受け入れられないのか?」あるいは「何がセーフで、何がアウトなのか?」という線引きの問題は、現代社会のいたるところに見られることです。

 たとえば、今ヨーロッパ諸国で問題になっている中東からの難民たち。難民申請が受け入れられるケースと受け入れられないケースを分けるものは何なのでしょうか。ちなみに日本では、シリア紛争が激化したこの四年間で難民認定されたシリア人はたった3人だけです。

 社会の中でより小さくされている者、無力で弱い者の苦しみに共感し、その人たちの立場に立って考えていくことの大切さについて今日の福音は語っています。

  *      *      *

 マルコ福音書9章には、イエスとその弟子ヨハネの対話が記され、ヨハネの一言に対してイエスが答えるというかたちで対話が構成されています。

 ヨハネはイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)と語ります。おそらく、自分たちが取った行動をイエスは褒めてくれると思って意気揚々と報告したのではないかと思われます。

 弟子たちは悪霊を追い出す権威をイエスから受けることによって、そのような権威を自分たちのグループの専売特許のように思い、自分たち以外にも同じように悪霊を追い出す者に対して先生の権威を犯す行為と思う老婆心からやめさせようとしたのでしょう。

 しかし、イエスの答えはヨハネにとっては予想外のことでした。「やめさせてはならない。・・・・・わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39節)とイエスは答えます。

 「自分たちに従うかどうか」という基準で味方か敵かという線引きをし、その人を受け入れるかどうかの判断を下しているヨハネ。しかし、イエスの関心はまったく別のところにあります。

 イエスにとって一番の関心は悪霊に悩まされている無力で弱い者たちの苦しみに共感し、その苦しみを取り除き、一人ひとりの主体性を回復させることでした。そして、そのわざを行ったのは神であり、その人もまた神から愛されているということを告げるのです。

 それゆえ、たとえ、自分たちのグループとまったく異なる人たちであっても、イエスと同じ行為をすることによって同じ効果がもたらされるのであれば、それはイエスにとっては願ったり叶ったりの出来事です。しかし、弟子たち、とくにヨハネはこのイエスの思いと神の計画をまったく理解することができませんでした。

 イエスは自分に与えられている権威を特権と考えず、自分の名を使って同じ行いをする人たちを通してもまた神の愛が社会のすみずみにまで浸透することを願っています。そのようなイエスの寛容で無私な心こそが、彼の権威がほんものであり、イエスを通してもたらされる神の愛が普遍的であることを証明しています。

 イエスが「敵を愛しなさい」(マタイ544)というとき、もはやイエスにとって敵という言葉は「憎むべき対象」「排除し撲滅すべき者」という排他的な意味を失い、味方か敵かという二者択一の問いそのものを無効にしています。

  *      *      *

 対話の後半で、イエスは厳しい言葉を弟子たちに述べています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼(いしうす)を首にけられて、海に投げまれてしまう方がはるかによい」(42節)。ここでイエスが念頭に置いているのは、その前の箇所で弟子たちが誰がいちばん偉いかと議論し合っていたときに、彼らに投げかけた言葉です。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(3537節)。

 「一人の子ども」に象徴される無力で弱い者たちこそ神は最も大切にされているという天の父の思いと、このような子どもが真ん中にいるということが神の国の証しであるということをイエスは述べていることをここで読み取る必要があります。

 それゆえ、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」に対して「海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とか、「手がそろったまま地の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(43節)、「足がそろったままで地に投げまれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい」(45節)、「方の目がそろったまま地に投げまれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(47節)とイエスが述べているのは、無力で弱い者たちを決してつまずかせることがないようにという彼の強い思いと、すべての弱い者たちを救おうとする熱意のあらわれと捉えるべきなのです。

 

Calling_of_the_ Apostles.jpg         【ドメニコ・ギルランダイオ:使徒たちの召命   



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ふれあい7・8月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

        愛を積むということ

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 『愛を積むひと』という映画を見ました。「愛を積む」という表現にまず魅かれました。愛するということはただ単に相手を喜ばせることではありませんし、相手のために何かをするということでもありません。人間がともに生きているという日常を、一つひとつの石を丁寧に積み重ねるように途絶えることなく繰り返していく歩みそのものが愛なのだと考えさせられました。

 北海道で第二の人生を送る熟年夫婦がこの映画の主人公です。今まで東京の下町の工場で仕事一筋に生きてきた夫が大自然の中で暇を持て余しているのを見た妻が、引っ越してきた家を取り囲むように一部だけ作られ放置されていた石塀(いしべい)作りを夫に提案します。夫は「俺は休むつもりでここに来たんだ」と言って応じませんが、しぶしぶ妻の提案を受け入れます。

 なぜ妻は夫に石塀作りをさせようとしたのでしょうか。男の愛し方と女の愛し方の違いと一言で片付けるつもりはありません。少なくともこの夫婦の間では、夫は自分が頑張って家族を養ってきたのだという自負があります。しかし、妻の方は、仕事一筋の夫を影で支えながら、工場の経営に協力してくれたすべての人たちにずっと頭を下げながら夫を助けてきたのです。

 愛という言葉の意味は多様ですし、その表現の方法もいろいろでしょう。しかし、この映画の中で描かれている愛は必ずしも「私はあなたを愛している」というように他者にストレートに向かっていくものではありません。なぜなら、この石塀作りには様々な人が引き寄せられ、石塀作りに関わっているすべての人たちがこの仕事を通してそれぞれの愛を回復していくからです。

  *      *      *

 ある時この夫婦の家が泥棒に入られ、家に帰ったばかりの妻は偶然その犯人の顔を目撃し、その場で投げ飛ばされて意識を失ったまま病院に入院するという事件がありました。自分たちの大切な家の中に押し入られ、しかも人生で一番大切な宝物を盗られてしまったにもかかわらず妻はその犯人が誰であるのかを決して明かそうとしません。それもまた広い意味での愛なのです。彼女は夫にとってもその村人にとってもこの石塀作りは大切なものだということを知っており確信しています。

 ただ一つの愛のかたちがあるのではありません。愛にはさまざまなかたちの愛があるのであって、小さい愛もあれば、ゆがんだかたちをした愛、不完全な愛、普通の社会には受け入れられない愛もあります。しかし、それら一つひとつが集まって初めて愛は強固なものとして築かれます。愛とはこの石塀の一つひとつの石のようなものです。もっとも小さい石がちゃんと自分の居場所を持っていてこの石塀を自分の力でしっかりと支えています。

 人生はこの石塀作りのように一つひとつの石を積み上げていくことに似ています。人よりも早く高く積もうと思って大きい石だけを積んでいっただけでは強固で綺麗な塀(へい)を作ることはできません。

  *      *      *

 自分には生きる価値がないと自信を失っている一人の青年に対して、この映画の主人公の男が石塀を指して、この一つひとつの石を見てみろと告げる場面があります。

 「お前にも自分の居場所と役割がある」という言葉はこの石塀を一緒に作ってきたからこそ説得力をもつ言葉となり、青年を心の底から勇気づけます。現代社会に生きる私たちにとっても、私たちが目指している社会はこの石塀のようなものであり、そうでなければならないと思いました。

 ここには人間の優劣や価値のあるなしはありません。すべての人がお互いに支え、支えられているということが実感できる社会なのです。

  *      *      *

 アッシジの聖フランチェスコを描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」という映画の中に、町外れの壊れたサン・ダミアノ教会をフランチェスコが再建しようとする場面があります。雪が降り積もる寒い冬の中、素足で一つひとつの石を積み上げていくフランチェスコの姿が印象的でした。

 一つの石を積んだ後、次にどの石を積むのがいいのか。今積んだ石にもっとも相応しい石を選ぶということは、石と石との出会いを仲介するということでもあります。

 フランチェスコは積んだ石の高さが前の石とそろっているかどうかを地べたに座ってフランチェスコを見守っている一人のハンセン病の兄弟に確かめながら築いていました。石造りの建物を造るということは協働(きょうどう)の作業であり、私たち一人ひとりがこの一つひとつの石なのだというメッセージがあります。

 この映画の中には「家を建てる者のてた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思える」(マタイ2142)というキリストのことばが響いています。

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          【ジョット:小鳥に説教するアッシジのフランシスコ  



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ふれあい5・6月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べなさい」

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 マルコ福音書によると、イエス・キリストが昇天する前に最後に弟子たちに述べたのは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べえなさい」(マルコ1615)という言葉です。しかし、なぜイエスは「すべてのに」と言わないで、「すべての造られたものに」と言ったのでしょうか。イエスが「すべての造られたものに」と言うときに、その「もの」とは何を指しているのでしょうか。

  *      *      *

 実は、このイエスの言葉が述べられているマルコ福音書16章9〜20節は、その内容や使用されている用語がマルコ的ではないことから、後代の付加の部分であるとされています。後にこの部分がつけ加えられた理由は、おそらくその直前に天使が「イエスはよみがえってガリラヤで弟子たちと出会う」(7節)と告げたあと、そのことを聞いた婦人たちが「恐ろしくて誰にも何も言わなかった」(8節)と締めくくって終わっている不自然さを補うため、また、マルコ以外の三つの福音書には復活したあとのイエスの物語が書かれていることから、マルコ福音書の後代の編集者たちが他の復活のイエス物語の伝承を参照しながら、マルコ福音書としての復活のイエスの物語を「結び」としてつけ加えたということなのでしょう。

  *      *      *

 しかし、マルコ福音書の最後の部分がたとえ後代の付加の部分であるとしても、この箇所には他の福音書にはない復活のイエスに関する重要な観点が語られています。

 例えばマタイは「すべての民をわたしの弟子にし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という言葉によって、すべての民を天の父の名の下に一つにするという教会共同体の形成に向けて、弟子たちに与えられた使命と権限、そして派遣について語っています。これは「教会論的観点」と呼べると思います。

 また、ルカは「イエスが父が束されたものをあなたがたに送るのであるから、高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉を述べ、この福音書の続編として書かれた「使徒言行録」において聖霊降臨の出来事を描くことによって、弟子たちが聖霊を受けることによって、そこから、その息吹を受けて新しい世界と歴史が始まることについて語っています。これは「聖霊論的観点」と言えます。

 さらに、ヨハネにおいては復活のイエスと弟子たちとの人格的関わりがより具体的に描かれています。そこには、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言って最後までイエスの復活を信じなかったトマスの話や、復活のイエスに出会えぬまま漁に出たペトロが、「主だ」という他の弟子の発見の言葉に驚いて裸のまま湖に飛び込んだエピソード、さらに、イエスがペトロの意志を確認するために「私を愛しているか」という同じ質問を三度もされてペトロが悲しんだ話などは、おそらくヨハネは弟子たちの個人的でネガティブな思い込みや不信を超えて働いているイエスの霊的な力について強調することで、信じる者の中に確かにイエスが現存していることについて語られています。

 これはおん父がおん子に向かうように、その同じ愛でおん子が弟子たちに向き合い、イエスが弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20・22)と述べていることから「三位一体論的観点」と呼べるのではないでしょうか。

  *      *      *

 さて、それではマルコが述べている復活のイエスはどうなのでしょうか。そのことを理解するためには、マルコ福音の特徴について見てみる必要があります。

 マルコ福音書にとって一番の関心は「イエスは神の子である」ということです。天のおん父である神の見えない姿、そしてその愛が、現実に見えるかたちとなって人間イエス・キリストにおいて遺憾(いかん)なくすべて現れているということをわたしたちにストレートに伝えています。また、マルコは神の子イエスを他の福音書よりも正確に歴史的な姿として伝え、イエスの生き方、行動、イエスによってなされた出来事を赤裸々に描き、弟子たちの理解がそれについていけないことをも包み隠すことなく描いています。果たしてイエスは本当に神の子であるのかどうか、という判断を読者自身に委ねているところがマルコ福音書にはあります。そこがこの福音書の魅力でもあります。

 福音書に描かれているイエスの姿のうち、マルコ福音書にあらわれているイエスの姿ほど人間の保守的世界観や世俗的期待を裏切るものはありません。マルコ福音書においてイエスはガリラヤで伝道を始め、四人の弟子を選んだあと、当時社会の中で最も小さくされていた人たちと積極的に関わっていきます。

 聖書の記述の順に振り返ってみると、イエスが癒した最初の人は「汚れた霊に取り憑かれた者」です。以下イエスによって積極的に出会わされた人を列記すると「熱を出して寝ていた者」、「多くの悪霊に取り憑かれた者」、「重い皮膚病を患っている者」、「中風の人」、「罪人・徴税人レビ」、「手の萎えた人」です。これらの人たちはその病気ないしは職業ゆえに社会から罪人と規定されていた人々ばかりです。

 イエスは何故積極的にこのような人々と関わりをもち、時には彼らと一緒に食事の席についたのでしょうか。イエスはその理由を、それに対して反感を持つファリサイ派の律法学者に対してはっきりと述べています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ217)と。

 イエスの関心は社会の中でもっとも弱い人、もっとも小さくされている人たちに向かっています。ここに昇天する前にイエスが全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べえなさい」と述べた理由が隠されています。昇天する前のイエスは人間イエスであり、まだ天の父の右の座にすわってはいません。だから、人間社会の中でもっとも小さな人たちへの関心が優先しています。

 しかし、昇天して天の父の右の座についた後は、「天と地の一切の権能を授かっています」(マタイ2818)。だからこそ、復活したイエスはもはや人間の世界を超えてありとあらゆる存在に対するものにまでその権能が及び、とくに被造物の中でも最も弱いものへと向かうのです。これは「存在の宇宙論的観点」と呼んでもいいと思います。

 近代科学の20世紀以降、人間が世界の中心となり、自然破壊や環境汚染など人間が自然を支配する者へと変貌しています。それ以前は、自然は人間にとって無尽蔵の宝庫と思われていたかもしれませんが、今や自然はこの世界の中でもっとも弱い存在であり、私たちが積極的に守っていかなければ絶滅の危機にあるということを私たちは十分自覚しなければならない時代になっています。

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 全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べえなさい」というメッセージは、ローマの信徒への手紙の次の箇所と呼応していることがわかります。

 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、・・・・同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(81922)。ここで言われている「被造物」という言葉を「自然」と置き換えて読んでみればどうでしょうか。

 生きとし生けるもの、およそ存在するありとあらゆるものの中でもっとも弱いものをこそ大切にするという感性は、マルコ福音書に描かれているイエスにとっての根本的な信条です。だからこそ、マルコ福音書の「結び」において復活したイエスが、生前のイエスの信条を「天と地の一切の権能を授かっている者」として「存在の宇宙論的観点」から語り、現代社会のエコロジーの問題にまで届くメッセージを語っていることは、マルコ福音書全体の観点からみても整合性があって正当であり、現代においても有効であるということがはっきりと言えるのです。

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 先日、ドキュメンタリー映画『地球交響曲(ガイヤシンフォニー)第八番』を見てきました。この作品のコンセプトについては次のように述べられています。

 「地球に初めて生命が誕生して38億年、生命は何度も宇宙的規模の大災害に遭遇し、絶滅の危機に瀕しながら、その都度奇跡のように甦り、新たなる進化を遂げ、私たち人類は今、ここにいます。

 宇宙は、自らが生んだ生命を可能な限り永く生かせ続けたいという意志を持っている様にさえ思えます。この宇宙の意志(Universal mindを地球上で体現しているのが樹(き)です。

 樹は何億年にも渡って地球の大気中の酸素濃度を21%という数値に保ち続け絶滅と進化を繰り返してきた多様な生命を生かし続けてくれたのです。世界中の全ての文化の中に、樹齢数百年の老大樹の中には、精霊が秘んでいるという言い伝えがあります。樹の精霊とは、「宇宙の意志」の顕われなのかも知れません。」

 宇宙的規模で人間のいのちと魂を支える「樹」にまつわる三つの物語。

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 1.過去600年、再び甦る日を待ちながら眠り続けて来た能面「阿古父尉(あこぶじょう)」。若くして非の死を遂げた天才的能役者、世流三代目元雅によって天河大辧財天社に奉納されたものです。この能面が復活することになり、老大樹から切り出されて新しい能面が能面打によって取り出されます。能面の復活は、単なる同じ能面の再生ではありません。能面が宿している魂がどのように引き継がれていくのかを辿る物語です。

 2.「樹の精霊」の声を聞き分けることができる至高のヴァイオリン名器ストラディヴァリウスの修復を依頼される一人の日本人天才的ヴァイオリン制作者が、3・11大震災で被災した陸前高田の奇跡の一本松と破壊された民家の木材を使ってヴァイオリンを作り、樹に宿るいのちと樹が人々と共に生きた記憶をヴァイオリンの奏でる音楽によって甦らせていく物語です。

 3.日本の高度成長期、牡蠣(かき)の養殖をしていた気仙沼の海が赤く濁り始めました。そのとき、その原因は山の森の荒廃にあると気付いて植林を始めた人がいます。海の汚れの原因が森の荒廃にあると気付かせてくれたのは、縄文時代から受け継がれてきた日本人の自然観でした。森の中の室根神社に奉られている神は、人間の営みが必然的に生み出してしまう罪穢れを川の水で洗い清め、健やかな水を海に届けると信じられてきました。それゆえ森と川と海は人知を超えた密接な絆で結ばれていることを直観的に感じていたのです。これは「森は海の恋人」という言葉を信念として植林運動を始めたことで、森と川と海のいのちのきずなを回復する物語です。

 どの物語もこころの奥までしっかりと届き、魂を振るわせられる物語でした。

 

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       【主の昇天:エル・グレコ  



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ふれあい3・4月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

  キリストの受難(パッション)の意味について考える

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

 イエス・キリストが逮捕されてから十字架上で処刑されて死ぬまでの出来事、および彼が被ったすべての苦しみについて福音書に記述されている箇所は受難物語と呼ばれています。この受難物語の最大の特徴はイエスが苦しみをすべて引き受けているということです。彼はいかなる苦しみも軽減されることを求めず、苦しみを生み出す人間の悪の現実と、そこから生み出されるありとあらゆる苦しみをその苦しみのまま自らの沈黙の中で(マルコ15・5)、また神の沈黙の中で受け取ります(マルコ15・29〜32)。

 苦しみの杯(さかずき)(ルカ22・42)をすべて飲み干そうとしたイエスの姿は、その姿を信仰の目で見ようとする人々にとってはとても衝撃的なことだったのではないでしょうか。

  *      *      *

 受難という言葉は英語でパッション(passion)と言います。これはラテン語のpatior(パティオール)という動詞の過去分詞passus(パッスス)が名詞化された言葉です。動詞patiorには本来「苦しむ」「耐える」「がまんする」という意味があり、その後イエスの苦しみの出来事が刻印されて、「許す」「受け入れる」「甘受する」「忍耐する」という意味へと発展的に派生してきたのではないかと考えられます。

 この語源の分析からわかることは、パッションという言葉が意味していることは、苦しむことは同時にその現実を受け入れるという主体の覚悟と決断に本質的に結びついているということです。イエス・キリストの苦しみが単なる無意味な苦しみではなく、受難、すなわちパッションと呼ばれる理由がそこにあります。

 患者を意味する英語のpatient(ペイシャント)という言葉もキリストの苦しみであるpatiorと同じ語源から来ていることからすると、突然降りかかってきた病の苦しみを受け入れ、その現実を耐え忍びながら癒されることを待つということが、患者という言葉の本来的な意味なのでしょう。そこから「忍耐」「がまん強さ」「根気」を意味するpatience(ペイシャンス)という言葉が派生して来るみちすじが見えてきます。大きな苦しみの中にあっても、その苦しみに向き合い、自らを失うことなくそこから解放されることを信じ、耐え忍びながら自分らしく生きようという意志がこの言葉の中に込められています。

  *      *      *

 受難を意味するパッションという言葉が出てきたのが紀元二世紀頃であるということからすると、ラテン語の動詞patiorという言葉において「苦しむ」という意味と「受け入れる」という意味が結びついた経緯として、そこにイエス・キリストの受難の出来事が深く関わり、それを仲介したということは容易に推測がつきます。キリストの受難は単なる歴史的な出来事の記述ではなく、キリストの苦しみを通しておん父の愛が世に示された啓示であるといえます。それゆえキリストの受難以前と以後では苦しみの意味がまったく変容していることがわかります。

 キリストは私たちに先立って苦しみという現実から生まれる新しい世界の創造の神秘を歩みます。彼は痛みと苦しみを知っています(イザヤ533)。このキリストの先駆けの歩みによって、苦しみを負っているあらゆる人にとって、すべての苦しみの中にキリストが私たちと共にいるということが示されています。キリストの受難が私たちに語っていることは、この世界にはなぜそもそも悪があるのかという問いに対する客観的な答えではありません。そうではなく、私たちの目の前にあるこの現実の苦しみ、そして私たちを死に追いやる苦しみに対して、私たちがどのように主体的に関わることができるのかという苦しみからの救いへの参与の招きです。

  *      *      *

 受難の主日(枝の主日)には、盛儀の入堂式とミサ聖祭の中で二つの対照的な福音が朗読されます。一番目の朗読はイエスがエルサレムに入城する場面で、ろばに乗っているイエスに対して人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように」(マルコ119)とイエスを讃えます。しかし、次の朗読では、その数日後、ローマ総督ピラトの前で群衆はイエスを「十字架につけろ」(151314)と激しく叫び立てます。一方でイスラエルの王と讃えていた同じ人たちがイエスを拒絶するに至る間にはいったいどういう心境の変化があったのでしょうか。

 すべての人間の苦しみの根本的な原因はただ一つ、それは幸せの源から自分が離れてしまっているという絶望感と孤独です。幸せの源である神との関係性を修復することができないときに、罪は私たちに幸せの根源である神を拒絶するよう誘惑します。その結果、苦しみを生み出す悪そのものに人間が加担することになり、悪によって生じたこの世界から生み出される苦しみが、それに加担してしまった人々によって増幅されてしまうという皮肉な現実が社会に広がっていくことになります。

  *      *      *

 私たちはどのように悪に立ち向かうべきなのでしょうか。キリストから離れて悪に立ち向かうことは果たしてできるのでしょうか。聖週間において示されているキリストの受難の出来事が私たちにその答えを与えてくれます。

 受難の主日の第一朗読はイザヤ書における「苦しむ僕(しもべ)」について語られています。この僕は最終的なメシア(救い主)を体現しているだけではなく、すべての苦しむ者たちの先駆けとしての姿でもあるのです。

 キリストの生涯において示された神の憐れみ(compassion)という言葉は共に(com)苦しむ(passion)という意味です。神であるおん父みずからが私たちと共に苦しんでくださっているという姿から、私たちは苦しみにどのように向き合っていけばいいのかという問いに対する答えを見出すことができます。

 神は私たちの無力をご存じです。そのことを十分承知の上で私たちを愛し、憐れみにおいて私たちと共にあり、私たちの苦しみと悪の結果もたらされる苦しみを共にしています。神の子イエス・キリストは私たちと同じ人間性を自らのものとして、私たちと同じ人間であることを引き受けただけでなく、私たちがイエス・キリストが生きた同じ人間性と一つになることを望まれました。

  *      *      *

 パウロはコロサイへの信徒の手紙の中で、自分の苦しみとすべての苦しんでいる人の苦しみとキリストの苦しみが一つであると語っています。「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(124)。これらの言葉においてパウロが語っているのは、私たちは互いに連帯するだけでなく、キリストの贖いのための苦しみにおいてキリストとともに連帯するということです。連帯という言葉の意味は、他者の重荷を共に担い合うということです。キリストは私たちとともにこの重荷を担ってくれています。

  *      *      *

 受難の主日の答唱詩編は詩編22からの引用で、「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」という言葉から始まり、絶望的な想いの吐露(とろ)が繰り返されています。この言葉はイザヤ書の苦しむ僕の姿でもあり、同時に、イエスが十字架上の死の間際に唱えた言葉でもあります。神は私たちの罪の結果、そして罪からもたらされる人間の苦しみからわが子イエスを隔たたせることはありません。神は私たちのことをすべてお見通しであり、私たちがどのような罪を犯そうとも,その私たちに対して憐れみをもち、キリストにおいておん父は私たちと共に苦しんでいます。しかし、神の憐れみ(共苦)は、苦しんでいる人たちを何としてでも助けたいという実効的な愛の力である慈しみ(ラテン語 misericordia ミゼリコルディア)によって、罪、苦しみ、死そのものに対する最終的な勝利を私たちに切り開いていきます。

  *      *      *

 パウロが引用する初代教会における最も古いキリスト賛歌の中では次のように歌っていました。

 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意をいなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリストイエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固しようとは思わず、かえって自分をにして、の身分になり、人と同じ者になられました。人の姿でれ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまででした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエスキリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2511)。

 イエス・キリストにおいて神は死に至るまで私たちを愛し、哀れなラザロに対して行ったように(ヨハネ11・1〜44)、また愛する独り子であるイエス・キリストに対してもそうであったように、再び私たちにいのちをもたらしてくださいます。それが神の私たちへの約束であり、私たちへの愛であるからです。

 

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                                   【シャガール:白い磔刑 



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ふれあい2月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

  「汚れた霊よ、この人から出て行きなさい」

       負の力から自由になるために

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

  イエスが宣教を始めた最初の出来事をマルコとルカ福音書はカファルナウムにおける「悪霊に取りつかれた男のいやし」の物語として書き始めています。

 「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。ところが会堂にれた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々をぼしに来たのか。正体は分かっている。神の者だ。』イエスが、『れ。この人から出て行け』と叱ると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何のわせずに出て行った」(ルカ43137)。

 ここに記されている「悪霊」という言葉は、まだ医学が進歩しておらず、病気、特に精神的な病の原因がわからなかった時代の痕跡(こんせき)と思ってはいけません。マルコとルカがイエスの宣教の最初の出来事として「悪霊」に取りつかれた男のいやしの物語を福音の最初に置いているということは、二人の福音記者が「悪霊」との対決はイエスが神の国を実現するにあたって本質的かつ最重要な課題と捉えていたということを私たちは真摯(しんし)に理解する必要があります。

 ちなみに、この言葉が新約聖書で使われている頻度(ひんど)を見てみると、旧約聖書に比べて圧倒的に多いことがわかります。「悪霊」という言葉は新約で93回(福音書では80回)出てくるのに対して、旧約では8回、また、「汚れた霊」という表現は新約で26回(福音書では24回)出てきますが、旧約では一度も使われていません。

 この頻度の違いが意味していることは、イエスの登場によってこの世の悪霊との闘いが決定的なものになったことを物語っており、神の子イエスはその神性を受肉によって世に対して目に見えるものにすることによって、逆に、この世を支配しようとする潜在的な力である悪霊がまさに顕在化していくことが可能になるという新たな出来事です。それはあたかも、レンブラントの絵画において強い光が描かれることで、その明暗対比によって影の部分がより鮮明に浮かび上がることと同じです。

  *      *      *

 イエスは異邦の地においても悪霊のいやしを行っています。それがマタイ、マルコ、ルカ福音書がともに記述している「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」物語です。この物語において、それまで外に現れず目立たないままに人々を支配し、苦しみを与えていた「悪霊」の存在が白日の下にさらされる瞬間が描かれています。

 悪霊に取りつかれると人はどうなるのでしょうか? 福音書の記述によると、彼は「、衣服を身に着けず、家に住まないでを住まいとしていた」(ルカ827)と書かれています。また、「これまでにも度々足枷(あしかせ)られたが、は引きちぎり足枷はいてしまい、だれも彼をっておくことはできなかった」(マルコ53)と書かれているところを見ると、彼は通常の社会生活から疎外されているだけでなく、社会の方から見ても手に負えない存在であって、あらゆる方法を使って彼を社会から隔離しようとしていましたがうまくいかなかったことがうかがえます。

 一方、悪霊に取りつかれた本人の側から見ると、彼は自分の人格も意志ももっていないかの如く悪霊に支配され、その望むがままに動かされているばかりか、「昼も夜も墓や山で叫んだり、石で自分を打ちたたき」(マルコ55)自傷行為に及んでいます。

  *      *      *

 私たちがここで考えなければならないことは、悪霊に取りつかれてしまうのはどのような人なのか? ということです。たまたま運が悪かった人が取りつかれるのではありませんし、ましてや罪を犯したことの報いでも、あるいは犯した悪に対する神の罰のしるしとしてということでもないでしょう。福音書には二つの要因が書かれています。一つは内面的要因、もう一つは社会的要因です。

 内面的要因というのは、彼が墓場を住まいとしていたと書かれているように、社会生活から疎外され、一人ぼっちで孤独を味わっているということです。また、汚れた霊に取りつかれているということで、足かせや鎖で縛られ肉体的にも精神的にも苦しめられています。

 本来は保護と愛情の対象にならなければならない人がますます内面的に疎外感を味わわなければならない状況に追い込まれています。現代の社会の中でも薬物に溺れたりリストカットなどの自傷行為に及ぶことはあることですが、これらはすべてその人の内面に潜む耐えられない孤独が引き起こしていることではないでしょうか。 

 社会的要因というのは、イエスが悪霊に対して「名は何というのか?」と問うと、「名はレギオン。大だから」と答えていることから、社会的に複雑な要因によってがんじがらめにされ、もはや自分自身の力によってはこの諸力から逃れることができなかったことを読み取る必要があります。

 「レギオン」は四千人から六千人の兵士からなるローマ軍最大の軍団を意味する言葉です。この名前から、破壊的で荒れ狂った海のように抑制が効かない悪霊の力が組織的に働いていたことがわかります。これは現代で言うなら、イスラム国のような宗教を騙(かた)る非人道的イデオロギー集団であったり、いわゆるブラック企業と言われる組織ぐるみで倫理観の欠如した集団などが挙げられるでしょう。

 残念なことながら、いつの時代もその時代の中で最も小さな人、最も弱い人、最も優しく繊細な心をもった人がこのような悪霊の力に取り込まれて苦しく辛(つら)い思いをすることになってしまいます。

  *      *      *

 イエスが、悪霊に取りつかれた人にどのように接しているのか見てみましょう。イエスは悪霊に男から出るように命じます。しかし、悪霊たちは自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりにいます。そのとき、そのりの山で豚の大群がえさをあさっているのを見た悪霊どもはイエスに、「豚の中に送りみ、り移らせてくれ」とい、イエスがそれを許したので、どもは出て、豚の中に入ります。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれみ、湖の中で次々とおぼれ死んだと聖書は記述しています。

 なぜ悪霊は豚の中に乗り移らせてくれと願ったのでしょうか。それは悪霊の本質を明らかに示す言葉です。悪霊というものはそもそも自らの中に存在の根拠をもっておらず、単独で生きることはできません。それゆえ、他の存在に寄生することでしか生きのびることができず、宿主である生物に付きそこから栄養をとって生きています。言うなればウイルスのようなもので生物ではないので、体内に感染したウイルスそのものを抗生物質によって殺したり不活性化したりすることはできません。

 ですから、イエスが悪霊が豚に入ることを許されたのは、それが悪霊に取りつかれた人を救う唯一の方法だったからではないでしょうか。結果的には二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死ぬことになりますが、それよりも一人の人が悪霊から解放されることのほうがイエスにとっては大切なことです。

 そしてもう一つイエスが悪霊が豚に入ることを許された理由は、当時ユダヤ人にとって豚は汚れた動物と考えられており、悪霊が豚を滅ぼすことによって、彼らの本性である悪意を人々に明らかにするためだったのではないでしょうか。

  *      *      *

 イエスは悪霊が人を支配していることを許さず、その支配権を神の子の手に回復することを求めます。なぜなら、悪霊は人を決して幸せにすることができず、人が苦しんでいてもその苦しみに関知せず、その人がどんなに犠牲になっても、その犠牲の下に自分がエゴイスティックに生きのびることを求めるからです。

 今日、悪はますますウイルスのような様相を呈しています。我々は悪霊というウイルスに感染しないように心と魂のワクチンを打って予防しないといけないと同時に、悪霊の根源に潜んでいる自己矛盾と孤独にイエスのように真剣に向き合って、その解決を模索していく覚悟が必要とされている時代を生きています。

 そのために私たちはイエスの十字架をしっかりと見つめる必要があります。天のおん父は最初からイエスが十字架に架けられることを望んでいたわけでは決してありません。イエスは全人類に対するおん父の愛とまったく同じ愛によってすべての人を愛し抜きました。そして、世を支配している悪がもっている負の力と真摯に向き合い、その悪をも完全な愛でもって包もうとされるときに、避けることができなかった出来事が十字架による死という形で結実してしまいました。

 しかし、十字架におけるイエスの愛は神のあわれみがもつ柔和で全能な力のすべてを現し、あらゆる悪の力に対するイエスの愛の勝利を宣言しています。ここに、今の世において私たちが悪に対峙するときに私たちの力と希望と救いの源である神の永遠の愛があるということを、私たちはイエスの十字架を見るごとに心の中に刻みつけなければならないのです。

 

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    【悪霊に取りつかれたゲラサの人のいやしの物語  



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ふれあい1月号(2015年)巻頭言 [巻頭言:Message]

     毎日をクリスマスに

 カトリック宇和島教会 担当司祭 田中正史

  「初めにことばがあった」(ヨハネ福音書1・1)。これはクリスマスイブ翌日に祝われる主の降誕日中ミサの福音朗読で毎年読まれる言葉です。

 クリスマスイブの夜の祭りの雰囲気から一転して午前の静寂さの中で荘厳に語られるこの箇所は、ことばによって世界をおつくりになった神がクリスマスのこの日おん子を通して見えることばとなって私たちのもとに訪れ、戸口に立って一人ひとりの心の扉をたたき、共に食事をするよう誘(いざな)ってくれていることを実感させてくれます(ヨハネ黙示録320参照)。と同時に私たちの人生の始まりに、また生きている証しである命の始まりにおいて神の恵みがあったことを思い起こさせてくれる。そんな言葉です。

 実際私たちの人生のすべての始まりにはことばがあり、出会いはことばによって深まっていきます。

 「こんにちは。」

 「初めまして。」

 「これからよろしくお願いします。」

 「とんでもない、こちらこそよろしく。」

 「なにかお手伝いいたしましょうか。」

 「わざわざどうもすみません。」

 「どちらのご出身ですか?」

 「そうですか、私もそうなんですよ。」

 「それは奇遇(きぐう)ですね。」

 「世間は狭いですね。」

 「ほんとうにそうですね。」

 「明日は晴れますかね?」

 「晴れるといいですね。」

  「休日はゆっくり休めますか?」

  「いやいや仕事が忙しくてね。」

  「実は私もそうなんですよ。」

 たわいもないことばであっても、ことばのやり取りがなければ互いに素通りしていくだけで自分の気持ちや考えていることはなかなか相手に伝わりません。

 生まれたばかりの子どもが一番初めに発した言葉に感動しない親はいません。それは両親の我が子に対する何千回もの愛の呼びかけへの応えであるからです。人と人の間で心が通じるということにはかけがえのない喜びがあります。まして神の思いが我が子である一人ひとりの神の子たちに通じたときのおん父の喜びはどれほど大きいものでしょうか。

  *      *      *

 「万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。ことばの内に命があった。命は人間を照らす光であった。」ヨハネ福音書冒頭の言葉に続く言葉です。

 二つの世界があります。一つは贈り物として与えられている世界。もう一つは理由もなくただ何かがそこに在るという世界。自分にとって世界はどのようなものとして現れているのかということはとても大切なことです。たとえば、人生を贈り物として捉えることができる人はそのことに感謝をもって応えることができるでしょう。しかし、そのように捉えることのできない人にとって、世界は自分の能力と時間を奪えるだけ奪って何も与えようとしない搾取する冷たい世界としか感じられないでしょう。そこには返礼の言葉も感謝の気持ちも入るすき間はありません。

  *      *      *

 昔高校時代に高知県土佐山田町にある博愛園という児童養護施設で毎年夏休みに一週間開催されるワークキャンプに参加したことがあります。近くの公民館に寝泊まりしながら、午前中は園児に勉強を教え、午後は草むしりやペンキ塗りなどの作業をして過ごしました。施設には幼稚園から高校までの子どもたちが50人ほどいて、これらの子どもたちは親がいないか、それぞれの家庭の事情で親元を離れて来ている子どもたちでした。しかし子どもたちは明るく元気で屈託がなく、回を重ねて参加するごとに家族のように親しみが増し、いつも笑いの絶えない楽しいキャンプでした。食事は施設の食堂で子どもたちと一緒にいただき、お風呂は一つしかなかったので男女交替で園児と一緒に入っていました。

 このキャンプに参加していたのは四国各地から集まったカトリック信者の高校生たちでした。あるとき初めてキャンプに参加した女の子が「一人の園児が神さまなんていない」と言っていると泣きながら公民館に帰ってきたことがありました。おそらく彼女は園児と話しているときに「神さまが守ってくださるから大丈夫だよ」というような言葉を発したときに、「でも神さまなんかいないんだもん」という言葉を返され、神がいるということをなんとか言葉で説得しようとしたけど、その子どもには通じなかったということだったのでしょう。

 私は当時園長先生だった武田紀(とし)先生から施設の園児のさまざまな話を聞かせていただきました。ある幼い兄と妹が入園してきたとき、妹の方は夜寝るときにベッドの上でずっと泣き続けていたそうです。どんなに宿直の保母さんがあやしても一緒に添い寝しても泣き止まなかったのですが、兄が妹をベッドの上から下ろして床の上に寝かせたところすぐに眠りについたと言っていました。ベッドの上よりも床の上の方が落ち着く場所であったということなのでしょう。このエピソードはそれまでこの兄妹がどのような境遇で育ってきたのかということを物語っています。

 その時私は、育ってきた環境が違う人たちが「神」という言葉を共有しようとするときにはその生活の背景にまで遡って、現実に与えられている「恵み」の観点から考えていかなければならないのだということを学びました。幸いその兄妹は施設の園長先生や職員の方々の愛情に支えられて素直で優しい大人に成長し、成人したときには私がいた松山にまで会いに来てくれたことを今も懐かしく思い出します。

  *      *      *

 ヨーロッパの歴史の中では長い間神を特に「存在」という側面から捉え、神が存在するかどうか、存在するとするなら神はどのような存在であるのかということが議論されてきました。しかし神が存在することが理論的に証明されたとしてもそれだけでは十分ではありません。なぜなら、聖書が言うように神を「恵みの与え主」という側面から捉えるなら、与えられる側の人間がその恵みを現実に十分感じ取り、人生そのものが神からの贈り物であると実感できなければ、神の「存在」ということは絵に描いた餅(もち)にも等しいからです。

 先ほどの施設の子どもは自分の置かれた境遇を神からの贈り物と実感することはできませんでした。だから「神はいない」と言ったのです。それは神の存在を否定しているというよりも、自分の人生も神からの愛の贈り物であってほしいという切実な願いに他なりません。ですから、その子どもがもし神が本当にいると思えるためには、その子どもの実の親の代わりに誰か他の人がその子どもに無償の愛を注ぎ続けることによって、その周りの人たちを通して神の愛を実感することができるまでにならなければなりません。そういう愛の実践の問題であるということだからです。

  *      *      *

 イエスは洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後、まず生まれ故郷のガリラヤで宣教を始めたと共観福音書は述べています。その中でもルカ福音書だけはイエスの宣教の出発を劇的に描いています。

 彼が安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとして立ったときに預言者イザヤの巻物を渡され、開いてみると次のように書いてある箇所が目に留まりました。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 読み終えるとイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言します。この宣言およびイエスのその後の活動、しかも十字架の死にいたるまでの彼の神と人に対する奉献の生活こそがヨハネ福音書冒頭で述べられた「ことばは肉となって、私たちの間に宿られた」ということの現実であり、神のいのちは神の子イエスの人生を通して私たち人間のいのちとなり、唯一不可分のいのちとしてわたしたちの内に宿ったと言えます。

 天のおん父はわが子イエスに宿る神のいのちを通して私たち自身の内にも同じ神のいのちが宿ることを望まれました。そしてイエスもまたおん父がイエスの内におられ,イエスがおん父の内にいるように、私たちもまたおん父と一つになることを望んでいます(ヨハネ172123)。

 神のいのちが私たちの内に宿り、おん父がいついかなるときにあっても私たちと共にいてくださることがクリスマスであるならば、私たちもまたその神のいのちを他者と分かち合うことで毎日をクリスマスにすることが大切です。そのとき神のいのちを分かち合う者たちは人生は神からの贈り物であり、神がいつも共にいてくださることを実感することができるからです。

 

 キリストの洗礼_グレコ.jpg

              【グレコ:キリストの洗礼



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